投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年10月16日(金)15時42分50秒   通報

学会員が支援活動をする理由は、公明党が、「立正安国の精神」を体現し、政治の世界に反映してくれると信じているからです。広宣流布を願っての支援活動であり、その心に功徳は具わります。一方、学会員の気持ちとは裏腹に、その心を裏切り、踏みにじってしまったのならば誰が罰を被るのか。それは議員であり、学会員には罪はありません。これは、折伏した相手が、途中で道を踏み外しても、紹介者の罪とはならないのと同じ原理です。折伏も支援活動も、あくまでも「道」を指し示すためのものであり、その道をまっすぐ行くかどうかは本人次第です。

公明党の理念を信じ、応援することは間違いではありません。しかし、政治というのは絶対的な世界ではなく、相対的な世界です。結果的に、国益を損ねる議員や、反逆する議員を応援していたということもあります。御本尊流布は絶対に正しいですが、こと支援活動になると絶対ではない。政治の次元における功徳と罰も存在しており、支援活動した結果、国がよくなれば功徳(善政)、悪くなれば罰(悪政)となり、自身に還ってきます。

宗教とは絶対的な世界であり、そこに相対的なものを取り込むこと自体、間違っていると思います。学会の公式指導では、支援活動は自由となっていますが、実質的にみたら、報告をとっている時点で、自由ではないことがわかります。正式な学会活動として支援活動を推進することは、無理があり、それどころか本来の道(一人の人を根本から救う)から反れてしまう危険性も有しています。

2015年9月15日付創価新報 「池田名誉会長が贈る 勝利の人間学」より
「題目また題目、折伏また折伏、激励また激励に徹し抜くことだ。基本を倦(う)まず墝(たゆ)まず繰り返していく。その人が、一番強いのだ。」

学会活動は、題目・折伏・激励以外は枝葉です。あれもこれもやり始めると、何が大切かがわからなくなる。支援活動はやりたい人間が、片手間でやるくらいがちょうどいい。宿命転換したければ、一人の人間を根本から救う戦いこそが肝要です。その上で、余力があれば支援活動する。これが正しい在り方だと考えます。支援活動は諸刃の剣であり、個人の功徳とはなり得ても、国レベルで考えた時に、必ずしも良い結果となるとは限らない。そういう性質のものであり、絶対ではない。支援活動は現実の政治を動かすので、信心の次元だけでなく、政治の次元でも見ていかなくてはならない。

政治の次元においては、学会員でも意見が割れて当然です。それを一つにまとめることは無理ですし、やってはいけないことです。ましてや、反対する人を「仏敵扱い」することは、人間主義、民主主義の崩壊を意味します。政治という相対的なものを宗教の中に持ち込むと、こういうことが起こります。

一切法が仏法であり、信心していようがしていなかろうが、功徳と罰の生活をしているのが人間というものです。広宣流布の一念であれば、挨拶ひとつとっても功徳となり、善根を積む行為となります。支援活動も同じです。あくまでも要は、どれだけ題目をあげ、折伏し、激励したか。自分自身が誰かの善知識となり、諸天善神となることが大事であり、それこそが「功徳」というものではなかろうか。

故に池田先生は、秘伝の祈りとして、「梵天・帝釈・日天・月天よ、わが身に入り給へ」と教えてくださったのだと思います。「功徳」という言葉から解放されることが、真の功徳なのかもしれません。