投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年10月 8日(木)22時16分45秒   通報

・永遠の希望様
上野殿御返事(P1561)は、「時」をテーマにされたお手紙ですね。砂の餅を供養した徳勝童子の例を挙げ、時の大切さを教えられています。本来、徳勝童子は「真心の供養の大切さ」を教えるためのものですが、この御手紙では、そっちよりも「時」を全面に出して用いています。これと同様、玉をあげた人の例も、時に適っていなければ、どんな尊い物も無益であり、それどころか、害にすらなり得るという話のように思います。

玉の話の詳細は明らかではないので、この話が「時」という角度のみでのたとえ話か、それとも違った見方があるのかは定かではありません。大仏のグリグリのとこ様は、そういった背景を前提とし、供養の本質的な部分へと応用発展させて、論理を展開されています。この御書のみならず、白米一俵御書(1596)も提示され、大聖人仏法の「供養観」というものを明かしてくださいました。

白米一俵御書には、供養の在り方として、「聖人は事供養」、「凡夫は理供養」という、二つがあることが記されています。即ち、肘を焼いた薬王や、雪山童子の身を鬼に委ねる姿は、聖人の供養(事供養)であり、凡夫には実践することが困難です。惜しむ心こそが凡夫の心であり、どこまでいっても法華経は人間学なのです。では、代わりに凡夫はどのような供養をするか。自分の命の供養は無理なので、代わりに、二つとない「物」を供養することが聖人の供養に通じると説かれています。自身にとって大事な物を、命の代わりに供養すること、それ自体も大変なことではありますが、それが凡夫の供養の大原則といった位置づけです。

そこから考えると、創価三代がどれほどすごいかがわかります。創価学会の淵源である牧口先生は、物の供養(理供養)どころではなく、命の供養をされた。これ、聖人の供養そのものである。大仏のグリグリのとこ様は、玉の例を依文とし、この部分に言及されている。創価三代の精神の中に、大聖人の精神は流れ、だからこそ創価学会は仏意仏勅の団体であると名乗ることができるのです。三代までが本物であり、その精神を永遠に継いでいくことが大事であり、閉ざしてはなりません。そういう意味において、「永遠の指導者」であると、私は捉えています。

供養といっても奥が深く、一つの御書で全体像を明かしているわけではありません。「時」、「対象」、「真心」等、見方を様々であり、非常に奥が深い。現実には、徳勝童子のように砂の餅(価値のない物)を供養するよりは、価値あるものを供養することが大切ですし、紙が有り余っているのに、自分の皮を剥いで紙の代わりにするようなことは、ただのアホです。本当に必要な物、相手が求めているものを提供してこそ本当の意味での供養となるわけで、真心だけあればいいという問題でもない。

創価学会は、価値創造の団体ですので、会員に無価値なことをさせないことが前提です。一人ひとりに、「それは本当に必要なのか」と、問い続ける姿勢がなければ、無駄が溢れてしまいます。無理・無茶・無駄な供養をさせないというのが、創価学会の根本精神でしょう。「会員を大切に」という言葉が名ばかりになり、会員に負担をかけるようなことがあってはならない。

「惜しまない心」こそが、仏の心であり、供養の精神です。だからといって、それを人に押し付けるようなことがあったとしたら、台無しです。あくまでも自発であり、「心こそ大切」なのです。