投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年10月10日(土)11時03分14秒   通報

・永遠の希望様
布施行は主に、「財の布施」と「法の布施」の二種類に大別される。財の布施とは他人に物品を与えることをいい、法の布施とは正法をもって他人を利する行為をいう。財の布施は、欲望は無限であることと、与える側に限界がある。法の布施は有限ではなく無限であるから、誰にでも実践可能である。

財の布施について釈尊は、法華経分別功徳品で、「私(釈尊)のために仏塔や寺院を建てたり、僧侶の住居を建てたり、四つのものを僧侶に供養する必要はない」と言われた。四つのものとは、僧侶の生活に必要な飲食・袈裟・臥具・腐乱薬(医薬品)である。この文は、もともと初めて覚りを求める心を起こした修行者に対しての注意事項である。それでは何故、財の布施行を制止したのか。本来の修行である法の布施こそが根本であり、財の布施という枝葉にとらわれると、かえって信を妨げることになるからである。あれもこれもやると、何が大事なことなのかがわからなくなる。そういう人間心理を釈尊はわかっていたのでしょう。

法の布施こそが要中の要であり、財の布施は、おまけである。法の布施、即ち、「どうしたら皆が元気(発心)になるか」を考え悩み行動することが大事であり、財の布施ごとき(あえてごときと言います)で悩む必要もなければ、悩ませてもならない。学会の中でも、財務のことで家族で揉めている人がいますが、これは愚かの極みであり、本末転倒です。財務は楽しく愉快にやるもので、それ以上でもそれ以下でもない。無理のある狂信的な財務は家庭不和を生み、最悪信心を破壊してしまう。

学会が貧乏で、会館の絶対数が不足、職員の給料すら払えないという惨澹たる状況ならまだしも、そうでなければ、「適度な財務」こそが健全であろうか。やってもやらなくてもどちらでもいいのが財の布施であり、「貧女の一灯」の話が言わんとしていることは、「財」ではなく「心」の大切さです。財の布施というのは、金持ちが有利であり、差別を生んでしまう。そういう観点からして、財務による功徳というものは、殊更に強調されてはならないと私は思う。多額の財務をするよりも、一人の人を折伏することのほうがはるかに重要であり、それこそが仏道修行の根幹です。この違いがわかっていないと、信心というもの自体がわからなくなる。これ、恐ろしいことである。

私の現場の婦人部は、「財務は三倍返しよ」と言って、自分自身の士気をあげていらっしゃる。これは「常の因果」の考え方で、自分の行いは自分自身に還ってくるという因果論である。日蓮仏法の因果論はもう一重深く、蓮華の因果論である。祈り(題目)が因となり、同時に結果も生まれるという不可思議な法である。行動の因果ではなく題目(一念)の因果なのである。功徳がほしければ祈ればいい。お金がほしければ素直に金額指定してごりごり題目をあげればいい。そして、祈りが叶った報恩感謝の思いを込めて財務をしていけばいい。功徳目当ての財務というのは底が浅く、「財務の功徳?そんなのいらね~よ」という覇気があってこそ学会健児であろうか。

戸田先生は学会内の金銭にはとても厳しかった。財の布施が信心を狂わせ、本来あるべき法の布施への足枷になってしまうことを恐れていたのではないかと思います。広宣流布に必要な分だけの額を、お願いするという形をとった。それがいつしか組織も大きくなり、一人ひとりへの配慮も行き届かなくなる。信心はどこまでいっても「心」であり、「財」は二の次である。このような意識のない幹部は、時に会員に罪悪感を植え付け、不信を増長させる。一昔前は、「うまくいかないのは、財務を惜しんだからよ!」と、狂信的発言をする幹部もいた。なんともおぞましい話である。