投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年10月 3日(土)23時41分39秒   通報

悪との闘争において最も忌むべきものは「中途半端な正義」である。これが一番性質が悪く、一見すると善なのだが、結果的には悪を増長させ、擁護してしまう。中途半端な正義は、「慈悲魔」となって現れ、悪と戦う心を削いでいく。内部の悪との戦いにおいての障壁は、会員の心の中にある「中途半端な正義」であることを、肝に銘じなければならない。

人というのは身内に弱いものであり、多くの魔も、家族や友人といった、身内に入ってくる。学会員にとって、同志は身内である。そして、「同志なんだから」と、悪事を大目にみる傾向にある。こういう場合、決まって言われるのが、「人間革命の途上」、「完璧な人間はいない」等である。これによって、結果的に悪は容認され、放置される。もちろん、すべてを糾弾しなければならないという類の話ではないことは言うまでもない。何事もケースバイケースであり、一律に考えるのは官僚主義、組織主義であり、人間主義というのは、原則はあるが、それを絶対とはせず、例外を持たせていくことである。

私は、今の学会は総体として、中途半端な正義に蝕まれているように感じる。公明党も、「歯止め」という名の中途半端な正義を行使したことにより、結果的に民主主義を破壊することに加担し、悪を増長させているように見える。反対や懸念の声を表明する人に対し、レッテルを張り、冷酷な対応をしている事実もある。多くの学会員も、中途半端な正義感によりそれらを擁護している。

54年も、「組織を守る」という中途半端な正義を行使した結果、師を見殺しにしてしまった。中途半端な正義の根底にあるものは、「だって仕方がないじゃないか」であり、だからこそ「時流には逆らえない」という言葉が発せられるわけです。教義変更は、「前会長が言うのだから仕方がない」、安保法制は、「総理が言うのだから仕方がない」という感じではなかろうか。世界広宣流布や、国民の守るためという大義は後付け設定であり、問題はその根底にある一念なのです。そこに危ういものを感じるからこそ、懸念を表明しているのです。

広宣流布とは、「圧倒的正義」の戦いである。創価学会の淵源である牧口先生の闘争こそが圧倒的正義であり、永遠に輝き渡る。しかし圧倒的正義を貫いた結果、命を失い、創価学会も壊滅状態に。この事実を忘れまい。絶望的な状況から、大逆転の闘争を開始し、現在の大創価学会が構築された。圧倒的正義の精神があればこそであり、それを失ったら元も子もない。そうなったら創価学会はただの烏合の衆となる。

権力に迎合し、中途半端な正義を容認し、それでよしとする団体へと成り下がってしまっているのが、今の創価学会の現状ではないか。それに対し、懸念と怒りの声をあげているのが宿坊の掲示板でしょう。創価学会の根底にあるのは54年の命であり、だからこそ池田先生は、「発迹顕本を頼む」と託されたのではないだろうか。現状でよければ発迹顕本する必要はない。普通に考えれば、今のままではダメだから、発迹顕本という根本からの変革を訴えられているとみるのが、自然ではないか。

味方のフリをした中途半端な正義こそが、発迹顕本を妨げる。これは、元品の無明のなせる業といってよい。無明を断ち切る圧倒的正義の信心の利剣を研ぎ澄まし、一刀両断する。これが痛快なる、仏活劇なのである。