投稿者:ジョーカー 投稿日:2014年11月 8日(土)15時35分15秒  

虹と創価家族様、平安その2様、賛同ありがとうございます
ますます勇気が湧いてきます!
さて、本日の聖教3面の『「創価学会会則 教義条項」の改正について』を読みました。
私の見解を述べたいと思います。

私は御本尊については
大石寺の戒壇の御本尊=日昇法主書写の御本尊=日寛上人書写の御本尊
このように考えています

しかし今回の改正で

戒壇の御本尊×
日昇法主の御本尊○
日寛上人の御本尊○

という決定がなされました

ではなぜ、戒壇の大御本尊はダメなのか。このように説明されています
「大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象といたしません」と

謗法の地にあるから御本尊の体を為していないという理屈
ここがわからない

妙法の力を引き出すのは、正しい信心がなければならない
謗法まみれの宗門には正しい信心がないから、妙法の力を引き出すことができないのはわかる

この問題の本質は、御本尊(物)と信心(心)をごっちゃに考えているところにあるのではないか

宗門には妙法の力を引き出す信心はないが、だからといって、御本尊自体に何のトガがあるだろうか

御本尊とは、生命を文字にして認めたものであり、普遍的なもの
たとえそれが謗法の地にあろうと、何らおかされるものではないと考えます

理屈としてお金でたとえると、同じ一万円札でも善人がもっているのは有効で、
悪人がもっているのは無効

それはおかしい
一万円札はどこまでいこうと誰が所有しようと一万円札であることに変わりはない

それでは、もし学会が邪教になったとしたら、日昇法主・日寛上人の御本尊は御本尊としての体を為さなくなるのだろうか謗法まみれで正しい信心をしていない宗門が所有しているからダメというのは暴論ではないか

論理の破たん=理証の破壊

一度改正してしまったら引き返せない
世界、世界と浮き足立って、足元がお留守になっているのではないか

これではローキックを連発されたら崩れ落ちてしまう

論争の火種となり、混乱を招く改正であると思いました。