投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年10月 2日(金)03時37分58秒   通報

一人を大切にするのが創価学会という団体であり、それがなくなったら邪教である。人はどこで狂うか。それは、人間が見えなくなるところから狂いが生じる。組織に慣れ過ぎると、いつしか人は、人間ではなく、数字や形で物事を判断するようになる。故に、現場感覚を忘れないことが大事であり、それを忘れたら即、官僚化する。現場=人間であり、そこに接しなくなってくると、人の心がわからなくなる。

同苦の精神を失ったら、もはやそれは仏法者とは呼べない。そして同苦とは、自分のチャンネルではなく、相手のチャンネルに合わせるということであり、それができてこそ信頼と信用を勝ち取ることができる。相手のチャンネルに合わせることができないのをエリートといい、忌み嫌われる存在なのは頷けるでしょう。54年は、創価エリートたちが、人間(師)ではなく組織を優先した結果、招いた惨劇である。一方、名もなき婦人部が厳然と「先生!」と叫ばれた姿こそが、エリートと対極にある本物の人間である。

人間が見えているのかいないのか。見えていれば、配慮や気遣いという「振る舞い」に現れる。相手のチャンネルを無視し、自分たちのチャンネルに合わせろというのは傲慢であり、それは「話を聴かない姿勢」となって現れる。「心こそ大切なれ」との御文の中に、一体どれほどの思いが込められているか。よくよく考えなければならないことである。

人は自分の境涯でしか相手を計ることができない。無意識のうちに、相手を決めつけてしまっているものだ。たとえ家族であっても、分かりあうことは極めて難しい。況や他人をや。わかったつもりになるのもこれまた慢心であり、自分が知らないということを知ってこそ第一歩目なのである。そして本当に知ろうと思うのであれば、相手のチャンネルに合わせ、耳を傾けなければならない。それを仏道修行といい、仏法では「聞く」ことの重要性を説いているのはそのためでしょう。

教義変更も安保法制も、民衆の懸念の声を置き去りにし、一方的に進めていく姿勢だから恐ろしいわけです。どちらも「納得」とは程遠いやり方で、事を進めてしまったのは一体何故なのか。それは、人の心がわからなくなった結果ではないか。知らず知らずのうちに、人間からかけ離れたしまった。こうなると対話にならない。

創価学会の中の、「一人を大切に」は名ばかりなのか。私自身、一人を大切にするということはいかなることなのかを自問自答している。宗教のための人間ではなく人間のための宗教という言葉も、果たして今の創価学会は実践できているのだろうか。有名無実になりつつあるのではないだろうか。

創価学会をダメにするのは、心のわからない創価エリートです。師弟を歪め、自分たちの尺度で物事を進めていく愚かなエリートこそが仏法を破壊する。そうならないためにも、「徹して人間を見よ」なのである。