投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年10月 1日(木)02時29分19秒   通報

御書P917
「法華経を行ぜざれば魔王親のおもひをなして人間につきて其の人をもてなし供養す」

法華経を行ずるということは、悪と戦うということであり、魔王が最も忌み嫌うことである。悪と戦わない人間を大事にし、もてなすのが魔王なのである。魔王の仕事は、いかに法華経を行ずる人間のやる気を削ぎ、骨抜きにするか。「あなたのためにならないですよ」と、さも心配しているかのように(親の思い)装う。しかしその奥底にあるのは、冷酷な命であり、「脅し」である。

魔王が、親の思いをなした慈悲に似た振る舞いをするのは一体何故か。御書はさらに、「世間の人に真の僧と思はせんが為なり」と続く。「私のほうがあなたのことを考えていますよ」と、仏法律の中に、世法や常識等を織り交ぜ、巧みに誘導しようとする。これ、魔王の手口である。いかなる言動であれ、悪と戦う心を失わせる者は、ことごとく魔王の使いであります。

仏法というのは、仏と魔との闘争であり、仏とは「悪と戦う生命」であり、魔とは、「悪に屈する生命」である。悪と戦う心を養うのが創価教育であり、これを失ったら、すべてを失うのと同じである。54年は、弟子が悪に屈した歴史であり、ある意味「創価学会の死」と言っても過言ではないでしょう。一度死んだ創価学会を、悪と戦う生命を燃えたぎらせ、再建したのが池田先生です。

誰が仏の使いで、誰が魔王の使いか。本当の敵は味方のフリをしています。もっともらしい言葉を使って、「悪と戦うことはよくない」と、諭してきます。一番多いのは、「池田先生」というワードを用い、戦う心を挫いてきます。先生の言葉でも、悪と戦う心を喚起するために用いるのか、それとも挫くために用いるのか。ここが仏と魔の見極めポイントである。

ともあれ、魔王の正体である元品の無明を断ち切るには、信の一字であり、それは「悪と戦う信心」でしか破ることは出来ない。悪を容認する羊の信心から、悪と戦う獅子の信心へと深化しなければ、悪に飲み込まれる。獅子の信心の中に日蓮仏法は躍動し、その先に令法久住がある。

日々の勤行・唱題の中に、「悪と戦う誓願」の祈りがあるかどうか。これがないと、いざという時に紛動されてしまう。悪を常に意識し、祈る中で、自身の悪も浄化されていく。この毎日の積み重ねの中に信心があり、その差は必ず現れる。悪との闘争の火ぶたはとっくに切られており、それを自覚できるかどうかにかかっている。