投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 9月30日(水)02時13分39秒   通報

・男子部N様、同志の歌様
一番苦しんでいる人を、一番大切にするのが三代会長の精神であり、学会精神です。創価学会から、この精神がなくなってしまったのなら、他の日蓮系の宗派と変わらなくなります。不当な除名は、どれほどの苦しみであったことでしょうか。そして、筆舌に尽くしがたいくやしさであったと思います。
「心こそ大切なれ」が日蓮仏法の魂であり、仏法者であるならば、組織のルールや戦い方以前に、苦しみに同苦できるかどうかだと思っております。同苦の心もなく、軽々しい無慈悲な発言は、どれだけ人を傷つけ、気持ちを踏みにじるか。そこがわかってこそ仏法者というものであり、学会活動で培われるべき精神でしょう。

心をみるのが仏法者であり、形をみるのが増上慢です。心に想いをはせることができなくなってしまうことが官僚主義であり、組織第一主義です。創価学会は宗教団体であり、株式会社ではない。どこまでも人間を大事にし、人間を大事にするということは、心を大事にするということです。
人は勝手なことを言うし、戦いを起こせば批判もされます。それでもどうか、自分の信じる道を歩み抜いてください。すべてをうまく完璧には出来はしないし、それが人間というものです。戦うということは傷を負うということであり、無傷ではいられません。
大悪起これば大善来たるであり、一連の出来事は、富士宮特区が大発展する前兆です。最後の勝利を祈っております。

・Kさま様
>除名の理由はともあれ同志の歌さんは学会の処分者を学会の座談会に参加させたとの行為は問題あると思いますか?<

これは組織論の話ですね。創価学会も組織であるが故に、心を大切にする仏法者の観点と、組織人としての観点があります。組織の観点だけを見るならば、理由如何問わず、除名者が公式の会合に参加することは控えたほうがいいでしょう。「悪法もこれ法なり」の原理で、組織の決定には一応従うのがルールであり原則です。もし、参加するのであれば、根回しや許可が必要でしょう。
ただし、何事も原則と例外が存在します。今回のような、「不当な除名」を遂行するような幹部の元では、どれだけ根回しをしたところで、許可は下りないのは火をみるより明らかです。話し合いが通じる相手ではないことが前提であり、不当除名自体が道理に反しています。こういう相手には正論は通じないので、行動を起こすしかないという判断だったのかなと思います。

本来、創価学会員としての権利をはく奪されるいわれのない人が不当に弾圧され、虐げられている。そのことに比べたら、座談会に出る、出ないという話はあまりにも小さい。根本的に大事なものを失っていて、それどころではない。組織人である前に、一仏法者であり、そこを外して物事を考えたら、仏子を見殺しにすることになる。それを果たして日蓮大聖人が許すだろうか。着眼点は組織論なんかではなく、不当な除名をしたという狂気であり、その恐ろしさです。いかなる理由があろうと、除名の判断に間違いがあったとしたら、とんでもないことです。
組織論としては、除名者を公式会合に連れてくることは問題ありますが、仏法者という観点では問題ありません。この違いでしょう。懸念すべきことは、悪い幹部はそれを利用し、さらなる弾圧の口実にする。それはかえってマイナスになる可能性があるのではないかと、心配しているのがKさま様といったところでしょうか。