投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 9月28日(月)10時38分45秒   通報

御書P898 通解
「問うていうには、なぜ法師(日蓮大聖人)一人だけがこの悪言を吐いているのか。答えていうには、日蓮が善無畏や弘法等の人々を非難するのではない。ただ疑問のところを挙げているだけである。それを怒られるなら、そうされるがよい。」

宿坊の掲示板で論じられていることは、執行部や最高幹部を非難しているのではなく、「先生の指導と違うのではないか」、「人間主義ではないのではないか」との疑問であり、その根底にあるのは、「危惧」です。学会がおかしな方向に行ってしまっているのではないかという心配であり、宗門のようになってほしくないという思いがそこにあります。学会の活動家で、宗門に就き従い、信心に励んでも、功徳があると思っている人はほとんどいないでしょう。それと同じように、学会が宗門化してしまったら元も子なくなることへの懸念があるのです。

組織上は、時の会長を中心に団結していきますが、すべての根本は三代会長の指導です。この軌道から外れていくことがどれほど恐ろしいか。54年は軌道からずれて、権威に屈してしまったからこそ敗北の歴史であり、二度と繰り返してはならない教訓となったのです。そうならないためにも、全国、全世界の人々のあらゆる智慧を結集し、日々、話し合われているのが宿坊の掲示板の位置付けでしょう。

そういった根底を知らず、安易に「怨嫉」だと括ってしまうところに危険性があり、「日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(P919)とあるように、御書の御文も使いようによっては、会員を弾圧し、自由な言論を封殺していくことも可能なのです。況や、21世紀は開かれた時代であり、情報がオープンであることは前提とし、自由な議論がなされてしかるべしです。

広布と人生を語る2巻より
「納得のいかない指導があった場合、けっしてしたがう必要はない。あくまでも納得いく指導を求め、または納得のいく指導をそしゃくしながら、信心の間違いなき前進をしていただきたい。」

創価学会は、「人間宗」であり、それは「納得」を意味します。組織の力や機構で会員を動かす団体ではありません。自由に何でも意見を言い合える雰囲気なくして、どうして納得を生むことができましょうか。あらゆる意見を包含し、それでも団結していける度量ある組織であってこそ、世界宗教である。まだまだ全然遅れているのが創価学会の実態でしょう。納得がなければ団結できないのが人間の心理であり、それを無理やり、「団結せよ」と圧力をかけるところに、権威主義がある。

懸念の声と、誹謗・怨嫉は似て非なるものである。これを一括りにされてしまったら、もう何も言えなくなる。内部の悪に対しても、「同志なのだから」というストッパーがかかり、戦うことを躊躇させてしまうことにもなる。これによって誰が喜ぶであろうか。こんな一念では、かえって悪を増長させ、跳梁を許すことになる。悪と対峙するどころか、悪に飲み込まれ、結果的に善人を見殺しにする。それが54年の根底でしょう。

善も悪も、仏も魔も、すべては表裏一体であり、紙一重です。いつ何時、誰が狂ってもおかしくない世界です。一念を見ていくのが仏法であり、宿坊の掲示板が果たして、「学会をつぶしたい」「団結を乱したい」という一念であるのか。それとも「懸念の声」なのか。根底にあるものを見定めなければ、仏が魔に見え、魔が仏に見え、180度評価が変わる。どのように判断するかは各自の自由ではありますが、賢明な判断をお願いしたいものである。