投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月 9日(金)19時08分19秒   通報
■ ユング「国家の奴隷になるな!」

名誉会長: 「神は死んだ」その結果、「人間も死んだ」。これが二十世紀の実相かもしれない。それは内面の「死」だけではない。国家崇拝と相まって、肉体的にも、歴史上最大の「メガ・デス(巨大死)」の悲劇を味わってきた。二十世紀は、最大の“殺人の世紀”であった。これを、ひっくり返して、最大に「人間を生かす」二十一世紀にしなければならない。そのための広宣流布運動です。
全民衆に、汝自身の偉大なる「如来神力」の大生命力を開けと呼びかけていくのです。恐ろしいのは、今のような「何も信じられない」という空虚感のスキにこそ、魔性の国家主義がつけ入ってくるということです。

遠藤: ナチスの勃興の前も、民衆の中にニヒルな空虚感が広がっていたと言われていますね。

名誉会長: 有名な心理学者・ユングは、「人間とその未来」というエッセーで、こんなふうに書いていた。(A・ストー編著『エセンシヤル・ユング —- ユングが語るユング心理学』所収、創元社)
「人生の意味の喪失を一度でも感じるなら、もはやその個人は国家の奴隷への道に乗」ってしまうと。そういう人は、国家主義の巨大な力に「抵抗」する力をもたないからです。悪に抵抗しない —- それは、悪の奴隷への道にすでに乗っていることです。
ユングは言っている。“国家こそ尊い”ということを民衆に吹きこみたい権力者にとって、一番邪魔になるのは「国家に妥協せず独自の道を歩む」宗教であり、彼らは必ず、そういう宗教を「足元からすくおうとする」と。
そういう宗教は、「『この世』の権威に対立するもう一つの権威を教える」ゆえに、人々を国家の奴隷にするのに都合が悪いからです。
ユングは、ずばりと言った。
「独裁国家は個人だけでなく、個人の宗教的な力をも吸い上げてしまうのである。かくして国家は神の位置に取って代わる」

須田: 「国家は神の位置に取って代わる」。まさに国家崇拝です。

遠藤: しかも、多くの人々は、自分が国家主義に取りこまれていることに、気がつきません。
無関心でいるうちに、いつのまにか、その道に「乗せられて」しまっている。気づいた時には、引き返せない地点まで来ている。ここに問題があります。

名誉会長: ユングの結論は、国家主義の魔性に抵抗する唯一の力は、個々人が「人間は小宇宙であり、偉大なる宇宙を小さな世界のなかに映し出している」という人間尊厳の自覚をもつことであるというのです。

斉藤: そうですか! これは、まさに法華経です。
■ タゴール「私の生命は ほとばしる!」

名誉会長: その反対に、現代は「一人では何もできないといった個人の無意味さが、一人ひとりの人間に完全に染み込んでおり、誰かに自分の気持ちを伝えようなどという望みはまったく失っている」と彼は嘆いている。

須田: たしかに「自分ひとりが何をしたって、どうしようもない」という“無力感”は、今、蔓延しています。自分の考えや、怒りを人に伝えても、しかたがないという孤立化もあります。連帯がありません。

遠藤: そうやって、皆が内にこもり、沈黙することが、権力者の“思うつぼ”なのですね。私たちの運動が、どれほど大切かと確認できました。

名誉会長: 神力品では、宇宙大の「広宣流布の瑞相」が示されたが、「人間革命」とは、一人の人間という「小宇宙」における「広宣流布」です。
自分の中の「大生命力」を噴出させるのです。大地をたたき破って出現した地涌の菩薩のように。仏典とはもちろん次元が違うが、タゴールの有名な話を引いて、ひとつの参考にしてもらいたい。
彼は二十歳をこえたばかりのころ、ある朝、たまたまベランダから外を見ていて、「突然に私の眼から覆いが落ちた」体験をした。
「美の波と喜びを四方にあふれさせて、世界が不思議な光輝を浴びているのを見出したのだった」(山室静訳、「わが回想」、『タゴール著作集』第十巻所収、第三文明社)。
その体験を彼は詩につづる。有名な「滝の目覚め」という詩です。
「おお、なぜか わたしにはわからない。 幾多の歳月をへたのちに
わたしの生命は 眠りから目覚めたのだ。
わたしの生命は いま 眠りから目覚めたのだ、
ああ、大水が 波立ち 高まる、
ああ、生の憧憬を 生の情熱を
わたしは 閉じこめ 抑えることはできない。
山が ごうごうと 地響きを立てて 震動する、
石が ごろごろと 転がり落ちる、
泡立つ波が どうどうと うねり
烈しい怒りに 咆哮する」(森本達雄訳、『タゴール著作集』第一巻所収、第三文明社)

遠藤: 世界が地響きを立てて揺れ動く —- 何か神力品の内容を思い出させますね。

名誉会長: 生命の激震です。
ただし神力品では「大歓喜の激震」であったが、タゴールがここで歌っているのは、大我が目覚め、ほとばしり出ようとして出られない、一種の“もがき”でしよう。しかし詩の後のほうでは、彼は歓喜にうながされて、こう歌っている。
「こころの言葉を語り告げ、
こころの調べを歌つて聞かせよう、
生命をふんだんにほどこすほど 生命はますますほとばしり、
もはや 生命は尽きないだろう、
わたしには 語るべき多くの言葉が 歌うべき多くの歌がある、
わたしの生命は ありあまるほどだ、
わたしには 多くの歓喜が 多くの願望がある。
生命みち 恍惚としている。
これほどの歓喜はどこにあるだろう これほどの美はどこにあるだろう」(同)

斉藤: 文字通り、“汝自身に目覚めた”歓喜の描写ですね。法華経とも響き合う“インドの心”を感じます。

名誉会長: だれもが、タゴール以上の目覚めをできるのです。
壮大な「如来神力」といっても、その「本体」は「南無妙法蓮華経」です。
ゆえに、御本尊に題目をあげることは、わが小宇宙の生命に、毎朝、毎夕、神力品のごとき壮麗なドラマを起こしているのです。その変革のドラマを今度は、現実社会にも広げていってこそ、神力品を読んだことになる。
そのためには、勇気です。打って出ることです。それで自分が変わる。社会が変わる。
大我に目覚めた、タゴールは叫んだ。
自己の小さな限界を「打ち破れ! 打ち破れ!」と。