投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月 9日(金)10時01分21秒   通報
■ 「忍辱の心」で戦う人が「仏」

名誉会長: 娑婆世界 —- 一番苦しんでいる人のところへ行くのが「仏」です。皆と苦しみをともにしていくのが本当の「仏」なのです。それ以外にはありません。
坊主が偉いのか。断じて、そうではない。政治家や有名人が偉いのか。断じて、そうではない。役職が高い人が偉いのか。絶対に、そうではない。一番苦しんでいる人のもとへ走る人が、一番偉いのです。
ご主人に信心を反対され、いじわるされ、皆に悪口を言われ、それでも耐えに耐えて、皆の幸福を祈って広布へ動いている —- そういう最前線の婦人部の方が偉いのです。
「仏」とは、その方の「忍辱の心」のことなのです。
ともあれ、戸田先生は“娑婆即寂光”について、「ここへきて仏法が、ひっくり返ってしまったのです」と言われていた。それまで説かれていたような、どこか速い「浄土」が理想なのではない。いつか素晴らしい「別世界」に到達するのでもない。
永遠に、この苦悩うず巻く世界で生き抜き、「広宣流布へ」「広宣流布へ」と永遠に前進していく。その「忍辱の心」以外に「仏」はないということです。
娑婆即寂光は「国土」に即して言ったことです。それを「人」に即して言うと、じつは仏とは、現実には「菩薩仏」以外にないのです。
釈尊もじつは「菩薩」であり、同時に「仏」であった。そもそも「菩薩」とは、釈尊の修行時代の姿がモデルになつていると言われる。しかし、修行時代だけが菩薩だったのではない。
いわゆる成道後も、釈尊は、自らの悟った大法を弘めるために菩薩の行動を続けた。
内にあふれてくる「永遠の生命」を自受法楽しつつ、人々にその法を弘めるために行動したのです。「菩薩仏」です。
「それまでの仏法がひっくり返ってしまった」というのは、ここです。
要するに、成道後も、どこまでも「人間」であり続けたということです。
「人間に帰れ!」というのが法華経なのです。
■ 「凡夫こそ本仏」の大宣言

斉藤: 考えて見れば、寿量品で否定された「始成正覚」という考え方には、きわめて危険な要素があったのではないでしようか。
つまり、釈尊が伽耶城近くの菩提樹の下で「始めて」悟った —- この始成正覚の「前は凡夫」「後は仏」と考えてしまうと、「人間・釈尊」が見えにくくなります。
実際のところは、「人間として」真剣に正しき道を求めたからこそ「わが仏界」に目覚めた。そうやって目覚めたからこそ、「人間として」最高の生き方ができた。
つまり「人間・釈尊」として一貫しているわけです。この一貫性を「始成正覚」は切断してしまう危うさがある気がします。

遠藤: 始成正覚以後は「人間を超えた」何か特殊な存在になった、そんな錯覚に陥りやすいですね。釈尊という人格を、目の当たりにできた釈尊在世の人々はいいとして、釈尊滅後の人には、どうしてもそう思われがちだと思います。

須田: そこから釈尊を神格化したり、自分たちは「凡夫でしかない」と卑下してしまった。これは謙虚なようで、実は傲慢の裏返しですね。「人間(凡夫)」の尊貴さを知りもしないのに、知ったつもりで人間不信になっているわけですから。

名誉会長: 「凡夫でしかない」 —- そういう言い方は、とんでもない間違いです。
そういう錯覚の黒雲を、大いなる涼風で吹き払ったのが法華経です。「凡夫でしかない」どころか「凡夫こそが仏なのだ」と。「人間こそが最高に尊貴なのだ」と。
この「法華経の心」を究極まで表現されたのが日蓮大聖人の次の御言葉です。
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」(御書p1358)
「本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり」(御書p1359)
まさに「それまでの仏法がひっくり返ってしまった」御言葉です。凡夫が「本仏」、仏はその“影”である「迹仏」にすぎないと言われるのだから。“仏があって凡夫がある”と思っていたら、そうではなく、“凡夫があって仏がある”のだと。
仏法だけでなく、全宗教史上、驚天動地の宣言です。
どんな宗教でも、神仏などの「絶対なる存在」が上、人間はその下と考えるのが通例です。それを否定して、絶対者と思われている神仏は、実は凡夫=人間の 「影」であり、「用(働き)」であり、「人間のための手段」にすぎない —- こんな宣言は他にありません。
まさに「人間のための宗教」の大宣言なのです。
歴史上、「人間のため」のはずの宗教が、いつのまにか「権威のため」の宗教に変貌してきた。その思想的な根っこは「神仏が上、人間が下」としたところにある。そう言えるのではないだろうか。

須田: 聖職者が、「ふつうの人間よりも上」とされてしまう構造も、そこから生まれると思います。神仏が人間よりも「上」にいるから、神仏の「そば」にいるはずの聖職者は、一般の信徒より「上」にいるように錯覚してしまう。

斉藤: その意味では、大聖人の仏法では、本来、「出家が上、在家が下」などという発想が出てくるはずがありません。

名誉会長: それはそうだが、「思想」と言っても、すべて「人」で決まる。
日蓮大聖人の仏法といえども、「人」が師弟の心を忘れれば、「人間のため」どころか、「人間抑圧のため」に使われてしまう。それは皆がよく知っている通りだ。
ともあれ、大聖人の御言葉が、全宗教史上、画期的な宣言であることは、いくら強調してもしきれない。仰ぎ見る対象であった「仏」が「迹」にすぎないというのだから —- 。
では、なぜ、そう言えるのか —- 。じつは、ここに神力品の“急所”もある。
釈尊から「地涌の菩薩」への「付嘱」とは、「凡夫こそが本仏」という意義を含んだ儀式なのです。しかし、あまり先走っても、皆よくわからないから(笑い)、段階を追って、学んでいこう。
ともあれ、「十神力」のような、“人間ばなれ”した説法も、日蓮大聖人はすべて、「人間生命」の現実に即して説明してくださっている。
生命論で言えば、「如来神力」の「如来」とは「宇宙生命」そのものであり、したがって「一切衆生の生命」そのものである。「如来とは一切衆生なり寿量品の如し」(御書p770)です。そして「神力」とは「神の力」であり「生命の力」である。なかんずく「仏界の大生命力」のことです。生きとし生けるものに本来、具わっている宇宙大の生命力を「如来神力」というのです。
この大生命力を地涌の菩薩が発揮して、「広宣流布」をしていく。その広宣流布というのも、この「如来神力」という大生命力を一切衆生に自覚させることです。
すなわち「地涌の菩薩」の拡大であり、「人間革命の連鎖」であり、「幸福拡大運動」です。その広宣流布の姿を先取りして示したのが、この「十神力」の説法です。

斉藤: たしかに、最後に十方世界が一つになり、すべての衆生が仏に帰命していくというのは「広宣流布」の姿ですね。

須田: 「大事には小瑞なし」(御書p1300)と言われますが、十方世界にわたる「瑞相」というのは、他に例がありません。

遠藤: 大聖人は「此の神力品の大瑞は仏の滅後正像二千年すぎて末法に入つて法華経の肝要のひろまらせ給うべき大瑞なり」(御書p1141)と明快に示されています。

名誉会長: それを今、私どもが現実にやっているのです。すごいことです。不思議です。大感激の人生だ。
まあ、一般には「神通力」と言うと、超能力のようなものを連想するだろうが、そうではありません。
大聖人は「利根と通力とにはよるべからず」(御書p16)と戒めておられる。
超能力などを基準にすると、“人間ばなれ”した特別な人を大事にすることになる。それは危険です。また、どんな超能力を示しても、問題はそれで幸福になれるかどうかです。
一般的にも、“特別な能力”に頼った人は、人間としての修行がおろそかになり、かえって不幸になる場合が多いものです。