投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月 6日(火)13時23分47秒   通報
■ 国家主義という“宗教”

名誉会長: 国家主義とは何か。その根本には「力の崇拝」があります。不軽菩薩と対極です。

須田: 「力の崇拝」が国家主義の根本にある —- 難しいですね。

遠藤: 国家主義と聞いても、ピンとこないという人もいますが —- 。

名誉会長: 「権力主義」と言ってもよいと思う。
「国家があって人間がある」という転倒の思想です。忘れてならないのは、国家主義は古代からの「宗教」であるということです。

須田: 「宗教」ですか —- 。

名誉会長: これについては、トインビー博士と、じっくり語り合いました。前にも話したと思うが、博士は、こう言っておられた。
「キリスト教の後退によつて西欧に生じた空白は、三つの別の宗教によって埋められた」その三つとは、「科学的進歩への信仰」と「共産主義」、そして「ナショナリズム」すなわち国家主義であると。その「国家主義」とは、どんな宗教か。それは「人間の集団力」を信仰の対象にしている。「集団力崇拝」であり「国家崇拝」です。
ちなみに、トインビー博士は、集団的な人間の力を崇拝している点で、ナショナリズム、ファシズム(全体主義)、共産主義は共通していると喝破されていた。国家主義という宗教のもとでは、「人間」は、あくまで「国家」の一部にすぎない。手段にされ、道具にされる。「人間の尊厳」が「国家のエゴ」に踏みにじられてしまう宗教です。

遠藤: それならば、今の日本にも、いっぱい例はあります。

名誉会長: 「集団力崇拝」の恐ろしさは、「信仰するに価しないことがそれほど明瞭にわからないから」だと、トインビー博士は書いている。
「そして個人が罪を犯す場合なら、おそらく躊躇なく良心の呵責をうけるはずの悪業も —- 一人称が単数から複数におきかえられることによって、自己中心の罪をまぬがれたような錯覚におちいるために、とかくこれを大目に見ることになる」(『一歴史家の宗教観』深瀬基寛訳、社会思想社)

須田: 一人称 —- 「私」という個人なら、とてもできないような非道も、「我々」という複数になったら、とたんに平気になるということですね。

遠藤: 赤信号も「みんなで渡れば、こわくない」(笑い)。恐ろしいことです。

斉藤: あの、戸田先生をいじめた看守も、「国家主義」に毒された姿そのものですね。
「国家」という強大な力と目分を同一視している。自分まで、力があるかのように振舞っている。

遠藤: 「虎の威を借り」「権力をカサにきた」姿です。

名誉会長: 戦争もそうだ。通常なら、人を殺すということは「極悪」の行為です。ところが「国のため」となると、たくさん人を殺したほうが英雄になる。

須田: 国家主義という転倒の宗教によって、人間が狂わされていく —- 。

名誉会長: 戸田先生は書いておられる。
「私は少年時代から不思議に思っていることがいくつもあるが、その中でもっとも不思議に思うことは、国家と国家の間に、もっとも文化とかけ離れた行動があるということである。
もっと、くわしくいえば、あらゆる文化国の人々が、礼儀の上でも言葉づかいでも態度でも、じつによく文化的に訓練され教育されている。
このように、個人と個人の間の生活は、価値と認識において文化的であるにかかわらず、この形式は国家と国家との間における外交にかんしでは、表面が文化的であっても、その奥は実力行使が繰り返されている。一旦外交が断絶されると、礼儀や習慣を捨てて修羅の巷となるのが国家間の状態ではなかったろうか」
戦争をはじめ、こうした流転に歯止めをかけ、人類永遠の楽園を建設する原動力こそ、真実の宗教であると戸田先生は叫ばれたのです。
人間です、大事なのは。人間のために社会・国家があるのであって、その逆ではない。国家優先の思想は、「力の崇拝」であり、要するに「弱肉強食」になっていく。人間愛の「不軽菩薩」と対極です。それで不幸になるのは、結局、庶民なのです。見ぬかなければいけない。目ざめなければいけない。