投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月 6日(火)18時28分42秒   通報
■ 国家崇拝を拒否

名誉会長: 国家悪の恐ろしさを、深く見抜いておられたのが、牧口先生であった。
神札を受けることを拒否した時、宗内には“形だけなのだから、受けけるだけ受けではどうか”という意見もあった。
しかし、先生は一歩も引かれなかった。先生が投獄される前から、座談会も特高警察の立会いで行われた。話が神札のことになると「中止!」の声が飛ぶ。先生が話をそらした後、神棚のことに入ると、また「中止!」。周囲の幹部でさえ「注意されることがわかっていながら、どうして牧口先生は、何度も話を繰り返すのかな」と思っていた。先生の心がわからなかった。先生が「神札」を拒否したということは、本質は「国家崇拝」を拒否したのです。
“国家より、人間が大事ではないか! 皆が不幸になっていくのを見過ごすことなど、絶対にできない!”という、やむにやまれぬ叫びだったのです。

斉藤: 「国家崇拝」を拒否したというのは、あの原始キリスト教もそうです。ローマ帝国という最強の「集団力」に対して、敢然と「ノー!」と言いました。

名誉会長: トインビー博士も、それを論じておられた。
<『試練に立つ文明』(深瀬基寛訳、社会思想社)では、こう論じている。「原始キリスト教徒は、彼らに向って、何も気にすることはない、ほんの形式だけのはなしだからといってしきりに勧められる『レヴァイアサン』崇拝との妥協を一蹴して、一見とうてい抗しがたく見えた『ローマ帝国政府』の強権に挑戦したのであります」と。「レヴァイアサン」とは、聖書に出る伝説的な巨大怪獣。ホップズ(一五八八~一六七九年)はこれを国家権力の象徴とした>

須田: 日本の諸宗教は、軍国主義の宗教統制に追随し、妥協してしまいました。
それで教団の体裁を守ったつもりになって、結局、肝心の「信心」を失い、骨抜きにされてしまったわけです。

遠藤: 宗門もそうでした。“魂”をなくしてしまつた。

名誉会長: 牧口先生、戸田先生が、大聖人の“魂”を守ったのです。国家権力との壮絶な戦いによって。

斉藤: 日本の国家主義という邪宗教との戦いだったといえますね。

遠藤: しかも、それは強大な「力」をもつている —- 。

名誉会長: 牧口先生、戸田先生は、人々を国家の「奴隷状態」から救うために戦ったのです。人間、だれ人にも、幸福になる権利がある。自由に生きる権利がある。国家の部品や歯車なんかでは絶対にない。
その信念ゆえに国家から迫害された。まさに「不軽」の行動です。

遠藤: 国家よりも人間 —- それを池田先生が行動しておられると思います。
ソ連に行かれた時もそうでした。「宗教否定の国になぜ行くのか」と聞かれて「そこに人間がいるからだ」と。
中国へ行かれた時もそうです。「おじさんは、何しに来たの」と問う少女に「あなたに会いに来たんです」と。
キューバにも行かれ、道を開かれた。国際情勢が最も困難な時に。
人間を信じるという一点で、世界を結ぼうとされている。これこそ「現代の不軽」の実践だと思います。

名誉会長: 私は「道」を開いているのです。青年が続かなければ、「道」は「大道」にならない。ともあれ、広げて言えば、上慢の四衆は、国家悪に通じる。権力者ほど増上慢の人間はいない。
四衆の行いを「第六天の魔王」の操る舞いとされている「御義口伝」があったね。

斉藤: はい。「上慢の四衆不軽菩薩を無智の比丘と罵詈せり、凡有所見の菩薩を無智と云う事は第六天の魔王の所為なり」(御書p765)とあります。<凡有所見とは「会うかぎりの、あらゆる人に対して(礼拝する)」との意。末法においては折伏が凡有所見となる)

名誉会長: 「大勢力」を誇る四衆が、何の力も持たない不軽菩薩をバカにし、迫害した。
四衆の「力」と傲慢に対して、不軽菩薩は「精神」で挑んだ。
「暴力」に対して「非暴力」で戦った。「多数」の横暴に対して「一人」で戦った。
それは近代においては、インドのガンジー、マーチン・ルーサー・キング師の戦いを想起させる。民衆による人間愛の人権闘争です。