投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月 5日(月)18時38分53秒   通報 編集済
名誉会長: 「増上慢の比丘、大勢力有り」(法華経p567)と説かれているように、彼らは羽ぶりがよかつた。大きな勢力をもっていた。その「力や「地位」を頼んで、いよいよ増上慢になつていたのでしよう。
権威、権力、経済力、腕力、地位力、組織力、名声、才能、知識 —- 人間、何かの「力」を頼んでいるうちは、なかなか謙虚になれない。すべてを失ってから、はじめて「聞く耳」をもつことが、あまりにも多い。人間の悲劇です。
ほとんどの人間が、自分自身の慢心で滅びていく。そうなる前に、裸の「人間として」自分には何があるのか —- それを問いかけることが大事なのです。一切の虚飾を、かなぐり捨てて。

斉藤: そういう増上慢の人々に冷笑されても、不軽菩薩は、びくともしません。どんなに罵られても、怒ることなく、「あなたは、必ず仏になるでしょう」を繰り返します。

名誉会長: 「忍辱」の修行だ。仏のことを「能忍(よく忍ぶ)」というが、忍耐し切れるかどうかで決まる。

遠藤: しかも、不軽の忍耐は何年も何年も続きます。なかには悪口罵詈するにとどまらず、杖や棒で打ったり、瓦のかけらや石を投げつける人間もいました。すると不軽菩薩は、さっと、よけて走り去り、遠くからまた大声で、あの二十四字を繰り返すのです。

斉藤: 機敏であり、したたかです。

須田: わざわざ暴力を受ける必要は、絶対にありませんからね。ぼ-っとしていてはいけない。機敏に身をかわしながら、しかも、少しもひるむことなく、また弘教を続ける。不屈の実践者です。

斉藤: しかも徹底して「非暴力」の闘争です。

名誉会長: かつて戸田先生は言われた。
「我々自身が南無妙法蓮華経である。ゆえに、たたかれようが、ののしられようが、ひとたび題目を唱えた以上は、水をのみ、草の根をかんでも、命のあるかぎり、南無妙法蓮華経と唱え抜いて、広宣流布へ向かっていくのだ。これが信心だ」と。
そして弘教については、こう教えてくださった。
「折伏に手練手管も方法もなにもありません。ただただ、おれは南無妙法蓮華経以外になにもない!と決めることを、末法の折伏というのです。それ以外にない。
どういうふうにやったら南無妙法蓮華経が弘まるか、どのようにやったら南無妙法蓮華経が人によく教えられるか、そんな方法論は関係ありません。我、みずからが南無妙法蓮華経だ! 南無妙法蓮華経以外になにもない! と決めきって、決めきるのです。
おれはそれ以外にない、それで悪ければ、殺されても死んでもなんでもしようがないと、自分は南無妙法蓮華経だと決めきって、御本尊を流布することです」
不軽菩薩もそうです。悪口を言われようと、たたかれようと、二十四字の法華経を「下種」して歩いた。相手がどうあれ、「自分はこう生きるんだ」と決めた通りに、戦い通した。その結果、不軽菩薩は、どうなったか。

斉藤: はい。経文には、こうあります。
「(不軽菩薩は死期が来て)まさに命が絶えようとするとき、天空からの声で、威音王仏が、かつて説かれた法華経の説法を聞き、そのすべてを信受した。
そうして、先に(法師功徳品で)説いたような六根清浄を得た。六根清浄を得て、そのあと二百万億那由佗年の寿命を増し、広く人のために、この法華経を説いた」

名誉会長: そう。「寿命」を延ばしたのです。生きのびたのです。生き抜いたのです。
この「寿命」とは、文字通り「長生き」したことでしようが、「生命力」とも解釈できる。たとえ短命であつても、「生命力」満々と生き、大いなる価値創造をして亡くなれば、その人は「長寿」だつたのです。また広宣流布をして、多くの人々に偉大な「生命力」を与えたこと以上の「長寿」はないと言える。
ともあれ不軽菩薩は、見事に六根清浄 —- 人間革命の「実証」を示した。その結果、周囲の目は変わった。

須田: こう説かれています。
「(不軽菩薩を軽蔑していた)増上慢の出家・在家の男女は、不軽菩薩が素晴らしい神通力と雄弁と智慧の力を得た事実を見、その説法を聞いて、皆、信伏し随従した」

名誉会長: 現金なものです(笑い)。それまで不軽菩薩は、雄弁でも何でもない。ただ二十四字を繰り返して、礼拝するだけです。だからバカにされたといえる。
しかし、立場は完全に逆転してしまった。自分たちがバカにしていた、あのみすぼらしい男が、あんなにも立派に、荘厳に変わった。「しまつた!」と思ったかもしれない。
戸田先生は、「今、いばっている人間が『しまつた』と思つた時が広宣流布だ」と言われていた。

遠藤: 彼らは心を入れかえて信伏随従しただけ、ましでした。それでも、彼らは、その罪のため地獄へ堕ちます。大聖人は仰せです。
「不軽菩薩を罵り、打った人は、はじめこそ、そうだったが、後には信伏随従して不軽菩薩を仰ぎ尊ぶことは、諸天が帝釈天を敬い、われらが日天月天を畏怖するのと同様であつた。しかし、はじめ誹謗した大重罪が消えなくて、千劫の間、大阿鼻地獄に入って苦しみ、二百億劫の間、仏法僧の三宝の名を聞くこともできなかった」(「呵責謗法滅罪抄」、御書p1125、趣意)
いわんや、心を改めない謗法者の罪は、想像もできません。