投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月 5日(月)12時31分22秒   通報
■ 二十四字の法華経

須田: 不軽品のあらましですが、「時代設定」は、「無量無辺不可思議の阿僧祇劫」をさかのぼつた昔、「威音王如来」という仏がいた。
その仏の入滅後、正法時代がすぎ、像法時代も末になった。そのころは、仏の正しい教えも見失われて、「増上慢の僧侶」が一大勢力をもっていた。こういう時代背景です。

名誉会長: 「法滅」の時だね。像法時代の「像」とは、「肖像」とか「映像」と言うように、「かたちが似ている」ということだから、形だけで、正法時代のような魂はなくなっている。仏法が形骸化した時代です。

遠藤: 「像法の末」とは、日蓮大聖人の出現された「末法の始め」に通じますね。
また、宗門によって日蓮大聖人の仏法がまさに「法滅」の危機にあった、その時に創価学会が興隆した意義にも通じると思います。

須田: たしかに「増上慢の比丘」が充満しています。こういうなかへ、不軽菩薩が出現するわけです。

斉藤: 彼は男女を問わず、また出家・在家を問わず、あらゆる人に対して、こう言って礼拝しました。
「我深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」(法華経p567)
<私は深く、あなた方を敬います。決して、軽んじたり、慢ったりいたしません。なぜなら、あなた方は皆、菩薩道の修行をすれば、必ず仏になることができるからです>

遠藤: 今引かれた「我深く汝等を敬う」以下の文は、漢文で、二十四文字から成つています。そこで、不軽菩薩の弘めた法華経は「二十四字の法華経」と呼ばれています。
この「二十四字の法華経」は、「広」「略」「要」で言えば、「略法華経」に当たります。
<御義口伝に「此の二十四字と妙法の五字は替われども其の意は之れ同じ廿四字は略法華経なり」(御書p764)とある>

名誉会長: 法華経とは一体、何を説いたのか。それがこの二十四字に凝縮されているということです。「私は深く、あなた方を敬います。軽んじたり、慢ったりいたしません。なぜなら、あなた方は皆、菩薩道の修行をすれば、必ず仏になることができるからです」
一切衆生に「仏性」がある。「仏界」がある。その「仏界」を不軽菩薩は、礼拝したのです。法華経の経文上では“一切衆生に仏性がある”とは明示されていない。しかし、厳然と、そのことを主張しているのです。これ以上の「生命尊厳」の思想はない。
宗教のなかには、「平等」を説いたとしても、人類は「罪の子として平等」であると説くものもある。しかし法華経は皆、尊き「仏子」と説く。「仏界の当体として平等」なのです。そこには、大きな違いがある。

須田: 自分の仏界を自覚していない“異教徒”であっても、仏界の当体である事実は変わりません。不軽菩薩が礼拝した通りです。ゆえに法華経の精神からは、暴力は絶対に出てきません。

斉藤: 暴力を伴う「宗教紛争」は、絶対にありえないですね。

名誉会長: ありとあらゆる暴力と対極にあるのが「不軽菩薩」です。法華経です。
「暴力」に対する「精神闘争」が法華経なのです。

斉藤: はい。非暴力の彼自身は「肉体的暴力」と「言論の暴力」をあびせられます。

遠藤: 「杖木瓦石」と「悪口罵詈」ですね。不軽菩薩は、遠くに四衆(在家・出家の男女)を見かけると、わざわざ出かけて行つて、あの二十四字を唱え、礼拝します。

須田: 今でもインドあたりでは、両手を合わせて「ナマステ」等とあいさつします。不軽菩薩も、そういう合掌をもつて礼拝したんだと思います。

遠藤: ところが、増上慢の人々は、感謝するどころか、かえつて怒って、罵ります。
「どこから釆たんだ! この無智なやつめ! わしらが仏になるだろうだって。そんな嘘っぱちの記別(予言、保証)なんか相手にするもんか」
要するに、“お前は仏でもないくせに、我々が仏になれるとか何とか偉そうなことを言うな。身のほどしらずの無智なやつめ”と、「常にバカにした」のです。