投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月 5日(月)08時52分47秒   通報
■ 一番苦しんでいる人のために!

須田: はい。寿量品のあと「分別功徳品」「随喜功徳品」「法師功徳品」と三品、「流通の功徳」が説かれます。それに続いて「不軽品(常不軽菩薩品)」(第二十章)では、「法華経を弘める人」の福徳と、「法華経の弘教者を毀る人」の罪を、あわせて説いています。

斉藤: それも「常不軽菩薩」という一人の実践者のドラマを通して、語つているわけです。

名誉会長: 「常不軽菩薩」という名前については、いろいろ面白い話があったね。
我々が親しんでいる鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経」では「常に(人を)軽んじなかった」菩薩という意味だが、サンスクリット語では反対に「常に(人から)軽んじられた」男という意味だつたという。

遠藤: その通りです。竺法護が訳した「正法華」でも「常被軽慢品」と訳されています。「常に軽蔑された」という意味になります。(軽慢は「軽んじ慢(あなど)る」)

名誉会長: 創価学会もそうです。民衆蔑視の日本の社会から、いつもバカにされてきた。「貧乏人と病人の集まり」と軽蔑する人間も多かつた。
しかし、戸田先生は「貧乏人と病人を救うのが本当の宗教である!」と獅子吼された。
金もうけの宗教は、金もちだけを大切にする。貧乏人なんか相手にしません。
いわんや病人を集めて、何になりますか。病院を開くわけではなし —- 。
真実の仏法は、苦しんでいる人のためにあるのです。一番苦しんでいる人を一番幸福にするための仏法なのです。そうではないだろうか。
この崇高な心のわからない人間からは、我々は「常に軽蔑されて」きました。それでも、相手がだれであれ、我々は悩める人がいれば、飛んでいつて面倒を見てきた。
抱きかかえながら、「あなたの中の仏界を開けば、必ず幸福になれるのだ」と教え、励まして、妙法に目覚めさせていったのです。
「一人の人」を身を粉にして育て、世話してきた。まさに「常に人を軽んじなかった菩薩」です。

斉藤: たしかに、折伏も指導も、相手を尊敬すればこそです。「この人は話しても、むだだ」と見放してしまえば、語ることもないわけですから。

名誉会長: 常不軽菩薩が、いつもバカにされていたという表面に着目すれば、たしかに「常に軽んじられた」菩薩になるでしよう。
しかし一歩深く、その行動の本質、魂に着目すれば、「常に軽んじなかつた」という訳は正しいのではないだろうか。

遠藤: 経典の“心”をくんだ名訳と思います。

斉藤: あるジャーナリストが、池田先生に「どうして学会は発展したのか」と聞いて、先生はこう答えられました。
「私が一人一人の会員と直接会い、語り合ってきたからです」と。

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「御義口伝」から
自他不二の礼拝なり、其の故は不軽菩薩の四衆を礼拝すれば上慢の四衆所具の仏性又不軽菩薩を礼拝するなり、鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり(御書p769)

通解
(不軽菩薩の礼拝は)自他不二の礼拝である。そのゆえは、不軽菩薩が四衆を礼拝すれば、増上慢の四衆の仏性もまた同時に不軽菩薩を礼拝するのである。これはちょうと、鏡に向かって礼拝する時、そこに映ってている自分の影もまた自分を礼拝するのと同じである。
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名誉会長: 別に自分のことが言いたかったわけではない。それぞれの地域での皆さんの苦労が土台にあることは言うまでもない。ただ、何か、「組織の力」とか命令とかで、大衆がこれだけの団結をするはずがないということです。一人一人を真心こめて大切にしてきたから学会は強いのです。学会のその「心」を強調したかったのです。
世間の指導者のほとんどは命令主義です。自分は楽をし、自分が疲れないようにして結果だけを盗もうとする。そんな指導者が多すぎる。我々は、これを革命しているのです。

遠藤: 一人一人を大切にする —- たしかに、これは疲れますね。

名誉会長: 自分が疲れない指導者なんて、インチキです。
世の中の不幸は、自分が疲れないように手を抜いて、要領よく振る舞っている指導者が多すぎることだ。結局、保身であり、遊びです。
いわんや学会は、まじめに働いて疲れている人、人生を真剣に生きようとしながら苦しんでいる人、そういう庶民を力づけ、幸福にするためにある。そのリーダーが疲れを厭(いと)って、どうするのか。
もちろん無理をせよというのではない。年齢とともに、健康への智慧が必要なのは当然です。ただ、不惜身命という“魂”を失つてしまえば、おしまいです。幹部も、他の指導者も —-。