投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月 4日(日)19時30分37秒   通報
遠藤: 「我常在此。娑婆世界。説法教化(我常に此の娑婆世界に在って説法教化す)」(法華経p498)という「本国土妙」のところですね。

名誉会長: 「仏」とは架空の存在ではない。もちろん、「架空の仏」も方便としては説かれた。しかし、真実の「仏」とは、この現実の五濁悪世の世の中におられる。
もっとも苦しんでいる民衆のなかに分け入って、人々の苦しさ、悲しさに同苦し、救っていく。それが「仏」です。
しかも、民衆を救わんと戦うゆえに、傲慢な権力者からは弾圧され、僧侶をはじめ悪い指導者に迫害され、当の民衆からさえ憎まれる。「悪口罵詈」であり、「杖木瓦石」です。
その大難のなかにこそ、「仏」はいらつしやるのです。どこか安楽な別世界で、悟りすましているのが「仏」ではない。怒涛の社会のなかへ、先頭を切つて進むのが、「仏」なのです。先頭を切つて進めば、必ず難を受ける。傷もつく。
しかし、民衆の苦しみをよそに、目分は傷つかないように、要領よくやろうというのは、それは「仏」ではない。「魔もの」です。
戸田先生は、ご自身をはじめ、創価学会員が、くる日もくる日も、広宣流布へと突進し、苦闘している。その現実にこそ、真の「仏法」の光はあるのだ、それ以外にはないのだと教えてくださつたのです。これが最後の法華経講義になったと言ってよい。

斉藤: 現実の中で戦い、難を受けていく —- これはまさに「不軽品」ですね。

名誉会長: 日蓮大聖人も「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり」(御書p1174)と仰せだ。
仏法は一体、何を説いたのか。その結論が法華経であり、具体的実践は不軽品につきる。

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常不軽菩薩品から
何の因縁を以つてか常不軽と名づくる。是の比丘、凡そ見る所有る、若しは比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷を皆悉く礼拝讃欺して、是の言を作さく、
我深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等 皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べしと  (法華経p567)

通解
<この比丘(出家の男性)は>いかなるいわれによって、「常不軽」と呼ばれるのか。それは、この比丘か、比丘であれ、比丘尼(出家の女性)であれ、優婆塞(在家の男性)であれ、優婆夷(在家の女性)であれ、目にする人々のだれに対しても礼拝し、ほめたたえて、次のように言うからである。
「私は深く、あなた方を敬います。決して軽んじたり、慢ったりいたしません。なせなら、あなた方は皆、菩薩道の修行をすれば、必す仏になることかできるからです」と。
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須田: この御文の後に、あの有名な一節が続きます。「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(御書p1174)

遠藤: 人の「振舞」 —- 「人間、いかに生きるべきか」ということを教えるために、釈尊は出現し、法を説いた。
その結論が「不軽菩薩の生き方」であったということになります。

名誉会長: なみなみならぬ御言葉です。仏法の真髄を教えてくださつている。
これを前提に、不軽品を学んでいこう。