2015年10月3日 投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月 3日(土)09時33分38秒 通報 ■ 耳根清浄 —- “心の声”を聞く 斉藤: 眼根に続いては「耳根」です。「耳根清浄」の人は、世界のあらゆる声を聞くことができると説き、非常に具体的に表現されています。 「三千大千世界の、下阿鼻地獄に至り、上有頂に至る。其の中の内外の種種の所有る語言、音声、象声、馬声、牛声、車声、啼哭声、愁歎声、螺声、鼓声、鐘声、鈴声、笑声、語声、男声、女声、童子声、童女声、法声、非法声、苦声、楽声、凡夫声、聖人声、喜声、不喜声、天声、龍声、夜叉声、乾闥婆声、阿修羅声、迦楼羅声、緊那羅声、摩喉羅伽声、火声、水声、風声、地獄声、畜生声、餓鬼声、比丘声、比丘尼声、声聞声、辟支仏声、菩薩声、仏声を聞かん。要を以って之を言わば、三千大千世界の中の、一切の内外の有らゆる諸の声、未だ天耳を得ずと雖も、父母所生の清浄の常の耳を以って、皆悉く聞き知らん」(法華経p543)。 名誉会長: ここに十界の全てが挙げられている。 地獄の衆生のうめき声から、仏が衆生を救う慈悲の声まで、世界には、ありとあらゆる声が満ちている。「耳根の功徳」を得た人は、それを悉く聞くことができる。「声」を聞いて、生命の本質が聞き分けられるということです。 また仏の師子吼を聞けるということは最高の幸福です。 魔を打ち破っていく大音声です。 遠藤: 天台の摩河止観に、医師の段階について「上医は声を聴き、中医は色を相し、下医は脈を診る」とあります。優れた医者は、脈をみたり、顔や体の様子を観察しなくても、声を聴くだけで病気がわかるというのです。 名誉会長: 有名な「病の起る因縁を明すに六有り」(御書p1009に引用)と説明する章(「病息を観ぜよ」の章)だね。仏法の歴史はつねに「生老病死」と対決し続けてきたのです。たしかに「声」には、その人の境涯、状況が、はっきり表れる。温かい声、冷たい声、弱々しい声、張りのある声、深みのある声、薄っペらな声、福徳のある声、誠実な声、二心のある声。 聞く人が聞けば、ごまかしようがない。ある意味で、話の「中身」以上に、「声」が、その人を表している。 斉藤: 「個人指導」の名人という方々も、必ず「よく相手の話を聞くこと」を強調しておられます。話の内容は当然として、相手の「声」を慈愛をもって、耳に入れ、心に入れていくことが大事だということだと思います。 名誉会長: 法師功徳品には「其の耳聡利なるが故に 悉く能く分別して知らん」(法華経p547)とある。生命の境涯を聞き分けられるのです。 「聡利」とは「聡明」と同じ意味だが、「聡」の字にも「耳」の字が入っている。「耳」が聡いことを「聡」といい、「目」が明察できることを「明」という。 御書に「師曠が耳・離婁(りろう)が眼のやうに聞見させ給へ」(御書p1448)と仰せのように、耳ざとく、目はしが利いていなければならない。(師曠は中国・春秋時代の音楽家。素晴らしく耳がよかった。離婁は中国古代の伝説上の人物で、百歩離れて人の細かい毛が見えたという) 情報戦です。この御文も、伊豆流罪という大難の直前、門下の椎地四郎に、しっかり正確な情報を集めなさいと励まされた御文とも解釈できる。「聞こえる」ということは大切なことです。「聖」という字にも「耳」が入っている。一説には、祈りながら、耳をすまして天の声を聴くことを示すという。 天の声 —- 宇宙の根源の声を聴く徳を「聡」と言い、その人を「聖」と言うのです。 今言った「師曠が耳」の「師曠」もじつは目が見えなかった。目の見えない音楽家であり、文化の指導者でした。 春秋時代、晋の国と楚の国が戦った時、晋に仕えていた師曠は風の声の中に「死声」を聴き分けて、勝負を占い、楚の国の敗北を予言したという。 斉藤: 時代の動向をも「声」によって察知していく力が、「耳根清浄」ですね。 名誉会長: 大聖人は「念仏の哀音」と破折された。この哀音は、亡国の響きであり、人を「死」へ誘う響きがあると。(御書には「念仏をよくよく申せば自害の心出来し候ぞ」(御書p1509)等と仰せである) 「歌は世につれ、世は歌につれ」と言うが、戸田先生は、関東大震災のころに「おれは河原の枯すすき…」(作詞・野口雨情)という、もの悲しい歌がはやっていたことを、よく語っておられた。 須田: 「死」の響きに対して、題目は「生」の響きです。希望のリズムです。 名誉会長: その「希望のリズム」を「耳」に入れていくことが娑婆世界での成仏の根本となる。「耳根得道の国」です。 遠藤: 「耳根得道」でない国土もあるということですね。 名誉会長: 天台が「法華玄義」で説いていたでしょう。 「香り」をもって得道(成仏)する「鼻根得道の国」とか・・・。 斉藤: はい。「衆香土」は、「香を以て仏事と為す」「香を用って経と為す」とあります。 遠藤: 「声仏事を為す」ではなくて、「香、仏事を為す」ですか(笑い)。 斉藤: 光などの「色」をもって「経」とする「眼根得道の国」もあれば、天衣が身に触れて成仏する「身根得道の国」、「食」によって得道する「舌根得道の国」もあると説いています。 須田: 「舌根得道の国」で仏道修行すると、皆、太ってしょうがないでしょうね(爆笑)。 Tweet