投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月 2日(金)18時18分14秒   通報
■ 真剣であれば「智慧の眼」が

名誉会長: 真剣かどうかです。真剣ならば「智慧の眼」が開目する。
「一念に億劫の辛労を尽くせば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(御書p790)です。
例えば、わが地域に人材がいないと嘆く前に、まず祈るのです。広宣流布は御仏意です。仏事です。仏の業です。ならば、どの地にも「地涌の菩薩」を大聖人が派遣してくださらないわけがない。人材がいないのではなく、「見えない」だけです。本気になって祈るのです。
また「自分が全責任を担っていくのだ」と一人立つことです。その一念に呼応して、人材が現れてくるのです。
誠実一途でいくんです、創価学会は。信心は。それが六根清浄です。濁りきった、この社会にあって、信心だけは、純白に、誠実一途でいく人を裏切らない。その人が勝つのが信心の世界です。こんなありがたい世界はない。「如蓮華在水」です。汚泥にあっても濁らない。それが蓮華です。地涌の菩薩は蓮華です。その姿を六根清浄という。
六根とは「小宇宙」のわが生命と「大宇宙」との“接点”です。大宇宙と小宇宙が「関係」する入り口であり、また出口です。この六根が清浄になるということは、自分の生命が大宇宙と完全に「調和」し、そのリズムに合致していくということです。
妙法のリズムと周波数が合う。
だから、悠々と行き詰まらない力がわいてくる。大宇宙に闊歩していく自在の大生命となる。これが「即身成仏」であり、「人間革命」であり、「六根清浄」です。

斉藤: 「父母所生の眼」とありますが、この現実のわが身が変革されるという点が大事ですね。

名誉会長: 現実です。現実を離れて仏法はない。信心したからといって、悩みの「汚泥」が無くなるわけではない。「悩みに負けない生命力」が出るということです。
むしろ、悩みをいっぱいもっていくことだ。それらの悩みにどれだけ挑戦できるかを楽しみにできるような境涯になることです。
また、「眼根清浄」といっても、目が見えない人もいる。その人は「心眼」が開いていくのです。必ず開ける。
反対に、視力が二・〇であっても、肝心なことは何も見えない人もいる(笑い)。

遠藤: ヘレン・ケラー女史は、三重苦を克服した「奇跡の人」として有名ですが、マーク・トウェイン(アメリカの作家。『トム・ソーヤの冒険』などで有名)が彼女に言ったそうです。
「ヘレンさん、この世の中には空洞(うつろ)な、どんよりとした、魂の抜けた、物の見えない目というものもあるのですよ」と。(ヘレン・ケラー『わたしの生涯』岩橋武夫訳、角川文庫)

名誉会長: 彼女は、マーク・トウェインと友人だったね。
トウェインは彼女のことを「十九世紀は二人の偉人を生んだ。ひとりはナポレオン一世、もうひとりはヘレン・ケラーだ」(高橋和夫監修、ヘレン・ケラー『光の中へ』めるくま-る)と称えていた。
「ナポレオンは武力で世界征服を企てて失敗した。だがヘレンは、三重の苦悩を背負いながらも、豊かな精神力で栄光を勝ち取ったのだ」(同)
彼女がどれだけ多くの人に「希望」を与え、「勇気」を与えたか、はかりしれない。文字通り、血のにじむような努力、努力を重ねて、学問の山へ登り、転んではまた登り、彼女は叫んだ。「そうだ、心の仙境(ワンダ-ランド)においでは、私は他の人と同じ自由を持つであろう」。(岩橋武夫訳、前掲書)
「心」の世界は「自由」です。「仙境」というのは「不思議の国」ということでしょう。驚嘆に満ちた素晴らしい世界が、心の中に開けたのです。自由です。自在です。

須田: そう言えば、池田先生は、学会の目の不自由な方々のグループを「自在会」と名づけられました。

名誉会長: ヘレンには妙法はなかった。妙法を持った自在会の人たちが、最高の「智慧の眼」を開いて、幸福になれないわけがない。
必ずそうなってほしいという意味で命名したのです。
また体のほかのところが不自由な人も同様です。