投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月 1日(木)06時34分15秒   通報
§法師功徳品§
■ 「法師=弘教の人」に六根精浄の大功徳

斉藤: 「伝統の二月」は、全国で、素晴らしい仏法流通の前進ができました。まさに「随喜功徳品(第十八草)」で学んだ通りの「五十展転」の無限の広がりでした。

池田名誉会長: すごいことです。「人を幸せにしたい」と祈り、動くなんて、この末法の世界で、こんな尊い人々はいない。真心から法を説いても、大ていは悪口を言われる。侮辱されることもある。それでも、何もわからない子どもを親が慈しむように、包容しながら対話していく。菩薩です。地涌の菩薩にあらずんば、できるはずのない聖業です。
大事なことは、悪口を言われるたびに、自分自身の生命が浄化されていくということです。だから戸田先生も「折伏のためにせらるる悪口は、心から感謝しなくではならない」と言われていた。「悪口せらるることによって、われわれの身体の罪障が消えて、幸福生活へとばく魁することができるからである」と。

遠藤: それが「六根清浄」ですね。ここで学ぶ「法師功徳品(第十九章)」の中心テーマです。<眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六根が清浄になる功徳>

須田: 法師 —- すなわち、自ら行ずるとともに「弘教する」人間の功徳とは何かを説いた章です。

名誉会長: 法師とは僧侶のことではない。法師品(第十章)でもやったが、法師とは「法を師とする人」であり、「師となって法を弘める人」という意味です。在家であれ、出家であれ、法を求め(求法)、法を弘める(弘法)人が「法師」なのです。

斉藤: 法師品にも、法師には「在家出家の、法華経を読誦する者」(法華経p386)とあります。在家でも仏道修行に励む人は、立派な「法師」であり、形は僧でも堕落した人間は「法師の皮を著たる畜生」(御書p386)であるとの哲学です。

名誉会長: ゆえに、現代において、広宣流布ひとすじに生きる創価学会員こそ、真の法師であると断言できる。
“正しい人生は、ここにある!”“幸福への大道は、ここにある!”。
こう確信をもって言い切れる人が今、他の、どこにいるだろうか。
法師とは、混沌として出口の見えない闇の社会にあって、人々を幸福へと導く「精神の指導者」のことです。いわば、地域と社会の「灯台」です。そういう人が、創価学会という大民衆組織には、無数におられる。諸君の周囲にもおられるに違いない。

須田: はい。私は(東京の)墨田に住んでいますが、墨田区の地区副婦人部長・関野チイさんは、今日まで百六世帯の個人折伏をしておられます。昭和三十一年(一九五六年)の入会です。九七年は三世帯、九八年も二世帯の弘教を実らせ、支部の弘教拡大の突破口を開かれました。しかも、入会した人が皆、着実に成長していて、支部幹部・地区幹部として活躍している人が少なくありません。

名誉会長: 百人もの人の人生を根本から救う —- 。これは、どんな大学者も大実業家も、遠く及ぶことのない大偉業です。また、そう見ていくのが、「六根清浄」のうちの「眼根精浄」に当たる。世間の「位」などに目を曇らされないということです。

須田: 関野さんは東京の下町で、靴材料の卸業を営み、六十歳を過ぎた今でも自ら車を運転し営業に飛び回っています。元気な関野さんも、入会した当時は重い脊椎カリエスを患っていました。五歳の時に母親を亡くし、貧困に苦しんでもいました。
「宿命を転換するには折伏以外にない」との指導に触れて、弘教の実践を決意したのです。仏法対話の初めは、自分が入院した病院でお見舞いに来る人に話すことから始まったのです。その結果、何年かかるかわからないといわれた入院生活から半年ほどで退院。その四日後には仕事を再開するほど見事に回復しました。その体験から仏法への強い確信を、つかまれたのです。

斉藤: 「確信の人」には誰もかないませんね。