投稿者:まなこ 投稿日:2015年 9月30日(水)19時42分12秒   通報
■ “御書の通り”に生きる喜び!

斉藤: 広島で被爆した松田文姑さんの体験を聞きました。
入会は昭和三十一年(一九五六年)。戸田先生の原水爆禁止宣言を直接聞いて、その感動から、弘教に邁進したそうです。
貧血、リューマチ、胃腸障害など七つあった後遺症も、活動の中で一つ一つ克服。広島総県の副総合婦人部長として、思う存分に戦えるまでに健康になっておられます。
十五年ほど前のことです。六十歳の時、御書を全編拝読したことがないことに気がついた。大聖人からいただいたお手紙なのに、まっ白のところがあっでは申し訳ない。そこで、全編の拝読に挑戦し、最初は五年かかったようですが、だんだん速度もついて、今は五回目に取り組んでおられるそうです。
読了で実感した功徳は、グチが出なくなったことです。「くたぴれた」「疲れた」とは言わなくなった。御書のどこを読んでも、大聖人がそうしたことを言われていない。そして、グチがなくなった分、たくましい楽観主義に変わったといいます。
今は、“ともすると悲観主義に陥りやすい国土世間”を変えていこうと、ますます燃えているとうかがいました。
■ 仏法を語ること自体か大功徳

名誉会長: 私も、よく存じ上げています。素晴らしいね。こうした草創の英雄が無数にいらっしゃることが学会の誇りです。
大聖人の仰せの通りにやろう! これが「随喜」の信心です。学会は「御書の通りに」を根本精神に戦ってきた。ゆえに学会だけに本当の歓喜があり、功徳があるのです。
要するに、広布に生きる喜びにまさる功徳はありません。弘教以上の歓喜はない。自分の対話をきっかけとして、他人がどんどん幸せになっていく姿を見る。これ以上の喜びはありません。そして、人の幸福を喜べば、ますます自身の生命が浄化されていく。
ゆえに折伏は傲慢ではなく、人間として生まれて、ひとことでも法を説ける喜びに燃えて行じていくことです。そして、大切なことは、折伏したときに、相手が聞くか、聞かないかは別問題だということです。

名誉会長: 随喜品には、「法華経の話があるから」と人を誘うこと自体が、すでに功徳を積んでいるのだと説いである。
会場で、座をつめて座らせてあげるだけで功徳があると説かれている。いわんや、自分から人に仏法の話をしてあげるのは、莫大な功徳を積んでいるのです。
「発心下種」(妙法を説いて相手が発心した場合)と「聞法下種」(相手が法は聞いたが発心しなかった場合)の功徳は同じなのです。だから、戸田先生は、何人もの人が折伏してもなかなか入信しない人について、“それだけ多くの人に「聞法下種」させて、多くの功徳を与えている人なんだ”と言っておられた(笑い)。

遠藤: たとえば、ある人が七人目の人の話を聞いて、やっと入信した —- こういう場合は、七人目の人にだけではなく、それまで折伏してきた、はじめの六人の人にも絶大な功徳があるわけですね。

名誉会長: その通りです。相手がどうかではなく、こちらが妙法を称え、聞かせていけば、それだけで大功徳になる。そう自覚していけば、またまた「歓喜」です。
そして、弘教を実践している人を、心から称えていくことです。最高に尊貴なる「仏の使い」なのだから。そうすれば、自他ともに歓喜がわくゆえに、さらに広宣流布が進むのです。
ともあれ、御本尊が大好き、唱題が大好き、学会活動が大好きという強盛な「信心」にこそ「随喜功徳」が無量にあふれてくるのです。