投稿者:まなこ 投稿日:2015年 9月30日(水)12時17分37秒   通報
■ 悩みを見おろす自分になれ

遠藤: 楽しいことばかりとは限りませんが(笑い)、やりきった後は、さっぱりと風呂に入ったように爽快です。

名誉会長: 「歓喜」と言っても、それだけが長続きするものではない。感激も、喜びも、時とともに薄れていく。「花のいのちは みじかくて 苦しきことのみ 多かりき」と言った女性作家がいたが、喜びは短く、苦しみは長いのが、人生の実相かもしれない。だからこそ「煩悩即菩提」の妙法が、ありがたいのです。
苦しみは、苦しみにつけ題目を唱える。悲しみは、悲しみのまま御本尊にぶつける。うれしきは、うれしさを開いて、感謝の唱題にする。悩みは悩みとして、大きく見おろしながら、前へ前へと行くのです。
御本尊を拝するということは、全宇宙を見わたし、見おろしていくようなものです。自分自身の苦しんでいる生命をも見おろしていける自分になっていく。
「随喜」と言っても、悩みがなくなるのではない。悩みがあるから題目が唱えられる。題目を唱えるから、生命力がわく。苦しみがあるから喜びがある。“幸せだけの幸せ”はありえない。“喜びだけの喜び”はない。
「仏法は勝負」なのだから、一生涯、戦いです。戦い続けられる強き強き自分をつくるのです。鍛えあげられた、その強き境涯が本当の永遠性の「随喜」です。信心があれば、何があろうと、生命の根底が歓喜になる。希望になる。確信になる。
そして、勇んで、悩める人のもとへ飛びこんでいって、自他ともに「随喜」の当体となっていけるのです。
日蓮大聖人の御境涯は、はかり知れないけれども、そういう真の「随喜」の模範と拝される。佐渡に流罪されるということは、「今でいえばサハラ砂漠のまん中に置き去りにされるようなものだ」と戸田先生は言われていたが、そういう大難のなかで「喜悦はかりなし」(御書p1360)と仰せです。

須田: 常識では考えられない御境涯です。
■ 「幸いなるかな」! 御本仏の大境涯

名誉会長: 御書のいたるところから、「幸いなるかな」「悦ばしいかな」との大聖人の大音声が聞こえてきます。その一部でも、拝しておこう。

斉藤: はい。御書には、次のように仰せです。「流人なれども喜悦はかりなし」(御書p1360)、「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(御書p1448)。
「劫初より以来父母・主君等の御勘気を蒙り遠国の島に流罪せらるるの人我等が如く悦び身に余りたる者よも・あらじ」(御書p1343)、「日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし」(御書p237)。
「経文に我が身・普合せり御勘気をかほれば・いよいよ悦びをますべし」(御書p203)

遠藤: 数限りなくありますが、こうも仰せです。「日蓮悦んで云く本より存知の旨なり」(御書p910)、「これほどの悦びをば・わらへかし」(御書p914)。
「日蓮が臨終一分も疑無く頭を刎ねられるる時は殊に喜悦有るべし、大賊に値うて大毒を宝珠に易ゆと思う可きか」(御書p962)
「幸いなるかな我が身『数数見擯出』の文に当ること悦ばしいかな悦ばしいかな」(御書p963)、「幸なるかな一生の内に無始の誇法を消滅せんことを悦ばしいかな未だ見聞せざる教主釈尊に侍え奉らんことよ」(御書p509)。

名誉会長: 「悦ばしいかな」「悦ばしいかな」です。大聖人の心音を聞く思いがする。
これが南無妙法蓮華経の「大歓喜のリズム」です。
■ 「御本尊に随順」が本義

須田: ところで、「随喜」とは「随順慶喜」の意義です。信髄して歓喜することです。「隋」とは「信心」のことと言ってよいと思います。
それでは、随喜功徳品では、何に「随順」せよと言っているのか。第五十番の人の随喜の功徳が、これほど大きいのだから、「随順する法」も、例の大長者(八十年の布施をした大長者)の与えた法とは比較にならない大法であることを示唆しています。
しかし、経文には「是の法華経を」とありますが、実体が明らかではありません。

斉藤: 要するに釈尊は法華経を説いて、何を信じ、何を本尊とせよと言っているのか。それが明らかでない。これは古来の仏教界の大問題ですね。

名誉会長: そこに「文底」の仏法が説かれなければならない理由があるわけです。
この品の冒頭、「如来の滅後に」この経を聞いて、とあった。釈尊はもういない。それでは、衆生はどうすればいいか。釈尊を本尊にせよと法華経では言っているのか。どこにも、そうは言っていない。そうではなく、釈尊自身も仏になした“仏因”の法を本尊にせよというのが「法華経の心」です。結論すれば、人法一箇の御本尊に「随順」していく信心が「隋」であり、その功徳が「随喜功徳」です。
大聖人は「人とは五百塵点の古仏たる釈尊法とは寿量品の南無妙法蓮華経なり、是に随い喜ぶを随喜とは云うなり」(御書p761)と仰せです。これがわからないと「法華経を讃すと雖も還て法華の心を死す」(伝教大師)ことになる。

須田: 日淳上人が、おもしろいことを言われています。「天台宗の和尚さんに聞いてごらんなさい。わかった和尚さんだったら、『おお今は、日蓮大聖人の時代である』といいますから。それをいわない天台宗の和尚さんなら、まだ法華の心をころしておる」
「だから、向こうからこちらへ入って、大聖人様の信仰に入った和尚さんなら沢山おります。それは、底に法華経の心があるからです」(昭和三十二年=一九五七年十月十八日)

遠藤: その意味で、随喜功徳品の後半も、御本尊の大功徳として読むべきです。
五十展転の説法の後、三段に分けて功徳が説かれています。
まず第一は、必ず物質的な幸福を得るということです。経文には、妙法を聞く者は「是の功徳に縁って、身を転じて生れん所には、好き上妙の象馬、車乗、珍宝の輩輿(乗り物)を得、及び天宮に乗ぜん」(法華経p535)とあります。
第二は、指導者となる福徳です。経文には、誘うくらいでも、少しでも人に勧めたら、「是の人の功徳は、身を転じて帝釈の坐処、若しは梵天王の坐処、若しは転輪聖王の所坐の処を得ん」(同)とあります。
帝釈、梵天、転輪聖王になる。今でいえば、会社なら部長、社長などに、あるいは地域のリーダーに、そして妙法流布の指導者になっていく。それぞれの立場で、リーダーとなって活躍できるということです。

名誉会長: そう。法華経は将軍学です。広宣流布に励む今の訓練が全部、生々世々、大指導者となる原因になっているのです。仏法には一切、無駄がないのです。

遠藤: 第三は、智慧が豊かになり、色心ともの健康をもたらす功徳です。
経文には、声をかけたり、誘ったりする人の五十の功徳が許細に並べられています。
すなわち、「利根にして」「智慧あらん」から始まり、口や舌、歯や鼻、すべて健康であり、いい顔になり、そして、「世世に生れん所には、仏を見たてまつり」「法を聞いて」「教誨を信受せん」と記されています(法華経p536、7)。

斉藤: 経済的にも、精神的にも、肉体的にも、そして、智慧も福徳も、すべて人がうらやむほど、自在の境涯になれるということですね。

名誉会長: 最後は全部、所顧満足となるということです。
人生、山あり谷あり、しかし信心をやり通していけば、最後は「これで一番よかったんだ」という黄金の境涯になれるのです。広宣流布に連なる労苦は、あたかも小さなマッチの火が広大な草原に広がっていくように、全宇宙大に広がる大功徳となっていく。