2015年9月29日 投稿者:まなこ 投稿日:2015年 9月29日(火)12時05分36秒 通報 ■ 五十展転の功徳は絶大 須田: 「五十展転」のところは、このように説かれています。まず弥勒菩薩が「この法華経を聞いて随喜する者には、どんな功徳、福徳がありますか?」と質問します。 これに対して、仏が答えます。如来の滅後に —- その真意は末法ということです —- 法華経を聞いて随喜する者がいるとする。それがだれであれ、年寄でも、若くても、町へ行き、田舎に行き、静かな所、にぎやかな所、いろんな所へ行って、父母、親族、友人、知人に対して、聞いた教えを、自分の力に応じて説く(随力演説)とする。そうすると、聞いた人々は、また随喜して、次の人に教えを語る。それを聞いた人がまた随喜して、教えを語る。このように「転教」し、「展転」していって第五十番目の人に至ったとする。 遠藤: 五十番目ともなると、随喜といっても、もうかなり薄まっているでしょうね。 須田: それでも、その人の功徳は莫大であるというのが「五十展転」の趣旨です。 名誉会長: どのくらい莫大かというと、日蓮大聖人が「五十展転の随喜は八十年の布施に勝れたり」(御書p)と言われているところだね。 ──────────────────────────────────────── 随喜功徳品から 父母、宗親、善友、知識の為に、力に随って演説せん。是の諸人等、聞き己って随喜して、復行いて転教せん。余の人聞き己って、亦随喜して転教せん。是の如く展転して、第五十に至らん。阿逸多、其の第五十の善男子、善女人の随喜の功徳を、我今之を説かん。汝当に善く聴くべし(法華経p532) 通解 —- (釈尊は法華経を聞く功徳について、弥勒に語る。法華経を聞き歓喜した人か)父や母、親類、善き親友や、知人のために自分の力に応じて法華経の歓喜を語ったとする。それを聞き終わって随喜した人がまた、余所に出かけて法華経の教えを伝えたとする。それを聞いた人もまた随喜して、余所に出かけて法華経の教えを伝えたとする。このようにして歓喜した教えを伝え、五十人目まて来たとする。弥勒よ、その五十番目の善男子、善女人の随喜の功徳(がいかに広大か)を、私は今、説こう。よく聞きなさい。 ──────────────────────────────────────── 遠藤: はい。「八十年の布施」というのは、「四百万億阿僧祇の世界」に住む、生きとし生ける者に対して、それぞれの欲しがるものを、何でも与える人がいたとします。 金、銀、瑠璃、瑪瑙、珊瑚など、もろもろの宝を与え、立派な乗り物を与え、七宝で飾った宮殿を与える。八十年間、それを続けます。 このように、「物」を与えるだけではなく、この人は、衆生がだんだん年老いてきて、髪が白くなり、しわが増え、死期が近づいてきたのを見て、仏法を教えるわけです。 斉藤: 物を与えるのは「財施」。法を教えるのは「法施」です。物だけでは、どんなに豊かになっても、「老」そして「死」という人生の根本問題を、どうしようもない。そこに、法を教える必要があるということですね。 名誉会長: もちろん、この大長者が衆生に教えた大法は、法華経以前の教えです。 遠藤: はい。そこで教えを聞いた衆生は、皆、阿羅漢の悟りなどを得ます。声聞の悟りです。が、それでも「素晴らしい境涯」と思われていたものです。 須田: これだけの「財施」と「法施」をやり抜いた人の功徳というのは、「どうだ、弥勒よ、どう思う。大変な功徳と思うか?」。仏がそう聞きます。弥勒は「この人の功徳は、はなはだ多くて、無量無辺です」と答えます。 すると仏は、「この人のその大功徳よりも、先ほど言った『五十番目の人が法華経の一偈を聞いて、随喜した功徳』のほうが、もっと大きいのだ」と説くのです。 その「百倍、千倍、百千万億倍」の、それ以上の無量の大功徳があるというわけです。 名誉会長: いわんや、第一番から四十九番目までの人の功徳をやということです。 妙法の偉大さです。 第五十番の人は、文字通り解釈すれば、自分が随喜するだけで人には語っていない。他の人に語る「化他」の行動はないわけです。それにもかかわらず、それだけの功徳がある。いわんや、もっと歓喜し、「化他流通」に励む人の功徳は「無量無辺阿僧祇にして、比ぶること得べからず(比べられない)」と説いてある。 「法華経の一偈」を聞いてとあるが、文底から言えば、「南無妙法蓮華経」ということです。御本尊ということです。御本尊の話を聞いて、「すごいな」「素晴らしいな」「ありがたいな」 —- そう思っただけで大功徳がある。 いわんや喜びにあふれて御本尊を拝し、妙法を、力に応じて「随力弘通」する人は、絶対に、祈りとして叶わざるなく、福運として来らざるなく、願いとして所願満足にならぬものはない。そういう文証です。 「五十展転」 —- 。 大聖人は、一生の間に一回でも題目を唱えたり、また題目の声を聞いて喜び、さらにその喜びの声を聞いて喜び、このようにして五十番目となる人は、智慧第一の舎利弗の如き人よりも、文殊菩薩や弥勒菩薩のような大菩薩の如き人よりも、百千万億倍の功徳があるのだと仰せです<「月水御書」、御書p1199、趣意>。 斉藤: 「随喜する声を聞いて随喜し」(同)と仰せですね。 Tweet