投稿者:まなこ 投稿日:2015年 9月29日(火)20時20分46秒   通報
■ 「自他共に」 —- 幸福の拡大運動

斉藤: 実際、座談会場の隣に住む人が、皆の楽しそうな声を聞いて入会するということもあります。

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随喜功徳品から
若し復人有って講法の処に於いて坐せん。更に人の来ること有らんに、勧めて坐して聴かしめ、若しは座を分って坐せしめん。是の人の功徳は、身を転じて帝釈の坐処、若しは梵天王の坐処、若しは転輪聖王の所坐の処を得ん(法華経p535)

通解
もしも、ある人が法華経の説法の場に座って参加しており、そこに、他の人か来たとする。その人に座を勧め、教えを聴かせようとし、あるいは座をつめて座らせたとする。座を勧めた人の功徳は、やがて、帝釈天が座る所、あるいは梵天王が座る所、あるいは転輪聖王が座る場所に座ることができるのである。
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遠藤: 新潟の白井トクさん(<県>副婦人部長)のお宅もそうだと聞きました。
白井さんのお宅は長年、座談会場などの拠点で使っていますが、多くの人が楽しそうに出入りするのを、隣の奥さんが、ずっと不思議そうに見ていた。
そこでは、いつも朗々とお経から始まる。終わると決まって歌が歌われる。それからアハハと実に楽しそうな笑い声が聞こえてくる。そして、なぜか毎回、八時半になるとピタっと終わる(笑い)。そして三十分ぐらいの間で、本当に、うれしそうに皆、出て行く。
昔は、窓の向こうから、夫婦ゲンカの声が絶えなかったのに、今は、楽しそうな声ばかりで、子どもたちも、あいさつをきちんとすることで近所の評判になっている。
それで、長年見てきた結果、やはり創価学会は力がある、この御本尊を拝んでみたい。そう思って、白井さんに入信を申し込んだようです。

須田: 今は学会員の笑顔を見て、自分も素敵な笑顔をしてみたい、そう思って入信する例が増えていますね。

遠藤: これも白井さんからうかがった話です。
ある壮年は、座談会で活動報告する時、どもる癖もあって、「すごかった」の一言しか出てこない。一生懸命、しやべろうとするんですが、どうしても次の言葉が出てこない。とにかく「すごかった!」の一点ばりなんです。
何がどうすごいのかは誰もわからないんだけれども(笑い)、それでも、びんびん「感動」は伝わる。それで結局、その姿を見て参加者が入会する。
これまでに百世帯以上の弘教をしてきた白井さんの結論も、対話は確信と歓喜。これに尽きるようです。先ほど先生が言われた通りです。

名誉会長: 尊い姿です。この利己主義の世の中で、自分だけでなく、人をも幸せにしようと祈り、苦労している姿は、荘厳です。崇高です。
悪口を言われながら、来る日も来る日も、広宣流布に励んでいる学会員は、まさに地涌の菩薩の出現にあらずんば、できえない姿と私は確信しています。
「随喜」というが、大聖人は、こう仰せだ。
「喜とは自他共に喜ぶ事なり」(御書p761)。
「自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり」(同)。
自分も人も、です。「自分だけ」では利己主義です。「人だけ」というのは偽善でしょう。自分も人も、ともに幸せになっていくのが本当の「喜び」です。戸田先生は「自分が幸福になるぐらいは、なんでもない。簡単なことです。他人まで幸福にしていこうというのが信心の根底です」と言われた。<昭和三十年(一九五五年)十月三十一日の本部幹部会>
その「幸せ」の内容が、この御聖訓に、きちっと示されている。
「智恵」と「慈悲」です。仏界の生命です。智恵があっても無慈悲では、生命は閉ざされている。また、それでは、本当の智慧ではない。慈悲があっても、智恵がなく、愚かであれば、自分も人も救えない。救えないなら本当に慈悲があるとは言えない。

斉藤: 両方が必要です。

名誉会長: その両方が、ただ「信心」の二字に納まっているのです。大聖人は「所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時必ず無作三身の仏に成るを喜とは云うなり」(御書p761)と明快です。これこそが「歓喜の中の大歓喜」(御書p788)なのです。

斉藤: 自他ともに幸福になる —- それが仏法を語っていく功徳ですね。
五十展転は、そういうダイナミックな「幸福拡大運動」を示していると思います。そして「地の果てまでも妙法を」と展転してきたのが創価学会です。
大聖人は“五十人”とは“一切衆生”のことだと言われています。
「五十展転とは五とは妙法の五字なり十とは十界の衆生なり展転とは一念三千なり、教相の時は第五十人の随喜の功徳を校量せり五十人とは一切衆生の事なり」(御書p799)
(五十展転の五とは妙法の五字のことである。十は十界の衆生のことである。展転とは一念三千である。五十展転とは、経文の表に説かれている内容から言えば、五十人目の人の随喜の功徳の大きさを量っているのである。五十人とは一切衆生のことである)
妙法の五字を十界の一切衆生が信受しゆくとき、つまり「広宣流布」しゆくときに、そこに「事の一念三千」が顕現していくのだとの仰せではないでしょうか。