投稿者:まなこ 投稿日:2015年 9月28日(月)06時29分51秒   通報
■ 語れば語るほど「声」は「力」に

須田: 「或は無礙の楽説」とは、「楽説無礙弁才」のことです。
礙(さわ)りなく、自由自在に、相手の楽うところにしたがって、正法を説ける力のことです。

名誉会長: 「声仏事を為す」(御書p708)です。しゃべらなければならない。「口八丁、手八丁」くらいでいい。もちろん「弁才」といっても、単なるおしゃべりではない。たとえ短い言葉であっても、ぴしっと的確に破折できる。
また、相手が心の底で一番知りたいことに、きちっと答えていける。自分がわからなければ、「わかる人のところに行きましょう」。それでもかまわないのです。それが一番いい場合だっである。大切なことは相手の「心を揺さぶり」「心をつかむ」力です。
要するに、広宣流布への自在の言論戦です。

斉藤: たしかに、池田先生の世界的な言論戦は、この通りの行動だと思います。
対談集の発刊だけでも、あらゆる分野の人を相手に、約三十もの対談があります。
(対談の相手は、進行中のものも含め、外国人では、トインビー博士、アンドレ・マルロー氏、カレルギー伯、ルネ・ユイグ氏、ペッチェイ博士、ウィルソン博士、ログノフ博士とは二冊、キッシンジャー博士、カラン・シン博士、デルポラフ博士、ボーリング博士、ウィックラマシンゲ博士、常書鴻氏、カズンズ氏、アイトマートフ氏、アタイデ氏、ガルトゥング博士、チリ共和国のエイルウィン前大統領、ゴルバチョフ氏、金庸氏、リハーノフ博士、ナンダ博士、シマー博士ならびにブルジョ博士、ヴィティエール博士、ジエロバ博士、また日本人では、松下幸之助氏、井上靖氏、ブラジル移住者の児玉良一氏らである)

名誉会長: 仏法には、それだけの力があるのです。皆、まだまだ、妙法の偉大なる力を知らない。
■ 精神は休まない

須田: 次の「万億の旋総持あり」というのは、「旋陀羅尼」ともいいます。(総持とは陀羅尼のこと)。「旋」というのは、比重の異なるものが混じり合っているのを旋回させて、遠心力で分離させることを言います。ものすごい「回転」によって煩悩を分離させ、昇華し、仏の偉大さを示しきっていく精神力をいうと考えられます。
「陀羅尼」とは、善を行い、悪を止める精神力のことです。

名誉会長: 本当の安穏の境地というのは、悪と戦い続ける「大回転」のなかにあるということです。次も、そうした「回転」の意味がこめられているでしょう。

須田: はい。五番目に「能く不退の法輪を転ず」、六番目に「能く清浄の法輪を転ず」とあります。
「法輪」とは、教えを「回転する輪」に譬えたものです。仏の教えを退くことなく弘めていこう、清浄なる教えをどこまでも伝えきっていこうという信心の躍動を表現していると思います。

遠藤: このあと七番目に、多くの菩薩たちが八回生まれ変わった後に、この上ない完全なさとりに到達することが述べられます。
それ以降、同様に(8)四回生まれ変わった後に(9)三回生まれ変わった後に(10)二回生まれ変わった後に(11)一回生まれ変わった後に、多くの菩薩が、この上ない完全な悟りに到達する、と続きます。そして最後に、(12)「多くの衆生が皆、この上ない完全な悟りに到達したいという心を起こした」と、寿量品を聞いた功徳の紹介がしめくくられます。

斉藤: 天台大師は、これらの功徳を菩産の五十二位に立て分けています。(不退地(無生法忍)=十住、聞持陀羅尼=十行、楽説無礙弁才=十回向、旋陀羅尼=(十地のうち)初地、転不遇法輪=第二地、転清浄法輪=第三地、八生して無上の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得る=第四地、四生して無上の悟りを得る=第八地、三生して無上の悟りを得る=第九地、二生して無上の悟りを得る=第十地、一生して無上の悟りを得る=等覚、無上の悟りを得ようと発心する=十信)
菩薩が得る功徳が、さまぎまに挙げられています。一見これらは「人によって、それぞれの段階の功徳しか得られない」ことを示しているように見えます。しかし、そうではなく、むしろ「どんな人にも功徳を与えられる」寿量品の力用の大きさを示していると思います。

名誉会長: 菩薩行によって得られる功徳のすべてが「寿量品への信」に含まれているのです。それは、なぜか。
「等覚一転名字妙覚」といって、寿量品を聞いて「等覚」に登った菩薩(仏と等しい覚りを得た菩薩)も、実は、その説法を通して、久遠元初の妙法を覚知し、一転して、名字即の凡夫の位から直ちに「妙覚」(仏の位)に入ったのです。
誓えて言えば、「妙覚」という仏の位を目指し、一段一段、山を登ってきた。ところが登ってみると、何が見えてきたか。
寿量品の山頂から見た光景は何であったか。
それは、久遠元初以来、常住の本仏が、休むことなく不断に一切衆生を救う活動をなされている。自分自身も、かつてその化導を受けた。「大宇宙と一体の仏」と自分とは、本来は師弟一体であった。その「我が生命の真実」を思い出したのです。
自分がどこから来て、どこへ行くのか、自分が何者なのか。それを思い出した。
この本有常住の仏とともに、永遠に一体で衆生を救っていくために働き続ける —- その「わが使命」を思い出したのです。
「仏(妙覚)」とは決して、安住の「ゴール」ではなかった。「名字の凡夫」即「妙覚」こそが真実であった。成仏の本因に住して「戦い続ける」その境涯こそが「仏」であった。その真実がわかったのです。あえて要約して言えば、そういうことになるでしょう。

斉藤: 寿量品の文上では、そういうことは、はっきり説かれていません。しかし、「五百塵点劫」の説法を「ヒント」として、そこまでわかったということですね。

名誉会長: 信濃町の駅まで連れてくれば、あとは教えなくても学会本部には行ける(笑い)。いわんや、一度本部に行ったことのある人なら、なおさらです。思い出せばいいのです。

須田: 釈尊が「すでに五百塵点劫という遠い昔に私は成仏していた」と説きました。それを聞いて「等覚」に至った聴衆は、釈尊が成仏するために師とした「久遠元初の妙法」こそ成仏の本因であることがわかった。

遠藤: そして、その法を信受したのが「名字即」で、それによって直ちに釈尊と同じ境地である「妙覚」に至った —- 文底からみた本質論はこうなるのではないでしょう。