投稿者:まなこ 投稿日:2015年 9月27日(日)18時20分40秒   通報
■ 「自我偈の功徳」を多角的に

遠藤: はい。これは、前章の考量品の説法を聞いた人々が、それぞれの境涯に応じて、さまぎまな功徳を得ました。その功徳を十二段階にわたって分別して(区別して)説いであります。そこで「分別功徳品」と言います。

斉藤: 大聖人は端的に「自我偈の功徳」と仰せです。
法蓮抄に「自我偶の功徳をば私に申すべからず次下に分別功徳品に載せられたり、此の自我偈を聴聞して仏になりたる人人の数をあげて候には小千・大千・三千世界の微塵の数をこそ・あげて候へ」(御書p1049)とあります。
(この自我偈の功徳は、私が勝手に言う必要はありません。法華経で、次の分別功徳品に説かれています。この自我偈を聴聞して仏になった人を数えていうには、小千世界・大千世界・三千大千世界を微塵にしたほどであるとされているのです)

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御義口伝から
此の品は上の品の時本地無作の三身如来の寿を聞く故に今品にして上の無作の三身を信解するなり、其の功徳を分別するなり功徳とは十界己己の当体の三毒の煩悩を此の品の時其の儘妙法の功徳なりと分別するなり、其の功徳とは本有の南無妙法蓮華経是なり                   (御書p799)

通解
この品(分別功徳品)は、前の品(如来寿量品)の時、本地である無作三身如来の永遠の寿命を聞いた菩薩大衆が、この品でその「無作の三身」を信解するのである。その功徳が、ここに分別されている。
すなわち、無作の三身を信解した時には、十界おのおのの衆生が本然的にもっている貪・瞋・癡の三毒の煩悩は、そのまま妙法の功徳であると、この分別功徳品では分別するのである。その功徳とは、我が身が、もともと南無妙法蓮華経の当体であると悟ることである。
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名誉会長: くわしくは、また論ずるとして、自我偈の説法を聴聞して仏になったというのは、文底から拝すれば、「南無妙法蓮華経如来を拝した功徳」のことです。御本尊を拝した大功徳です。自分自身が久遠の昔より、久遠元初の御本仏と一体不二であったことを信解した大功徳のことです。

須田: 分別功徳品は、こう始まります。
「爾の時に大会、仏の、寿命の劫数長遠なること、是の如くなるを説きたもうを聞いて、無量無辺阿僧祇の衆生、大饒益を得つ」(法華経p511)
(その時、そこに集まっていた大勢の集いは、仏が、その寿命の劫の数が長く遠いことを、このように説かれたのを聞いて、無量・無辺・無数の衆生は、大いなる利益を得た)

遠藤: この「大饒益」の中身については、こう説かれています。
「或は不退地に住し 或は陀羅尼を得 或は無礙の楽説 万億の旋総持あり 或は大千界 微塵数の菩薩有って 各各に皆能く 不滅の法輪を転ず(中略)是の如き等の衆生 仏寿の長遠なることを聞いて 無量無漏 精浄の果報を得(後略)」(法華経p515)

名誉会長: 釈尊の説いた功徳を弥勒菩薩が、まとめ直して述べたところだね。

遠藤: はい。ある者は「不退の地」に住する。「不退」とは「退かない」ことであり、「前へ前へ」と永遠に前進できる境涯です。

名誉会長: そう。「進まざるは退転」「戦わざるは退転」です。この「不退の境涯」を得られれば、その人はもう勝利者です。

斉藤: 「陀羅尼を得」とは「聞持陀羅尼門」のことで、聞いた教えを忘れない力を得るということです。

名誉会長: 「憶持不忘の人は希なるなり」(御書p1136)と、大聖人は仰せです。
「つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(御書p234)です。そうならない、誓いを忘れない項涯を得る。また師匠の教えをちゃんと覚えていて、実践している。