投稿者:まなこ 投稿日:2015年 9月27日(日)12時51分31秒   通報
■ 「生きた哲学」か否か

須田: 「功徳」と言うと、いわゆる「現世利益」のように思って、低級な宗教のように見下す人もいます。しかし、仏法の功徳論は、「生命を浄化せよ」「自分自身を変革せよ」という教えなのですね。

名誉会長: 功徳とは、現代的に言えば、「価値」であり「価値創造」ということです。
価値の内容は「美」「利」「善」です。
その反対(反価値)は「醜」「害(損)」「悪」です。人間の生活は、だれもが、これらの「価値」を目指して生きているのではないだろうか。

須田: 働くのも、食べるのも、本を読むのも、病気を治そうとするのも、全部、何らかの「価値」を得よう、創ろうとしていますね。

名誉会長: だれもが「幸福」を求めている。草木も自然に太陽に向かって伸びる。人間も、よりよき生活へ、よりよき生活へと生きている。
それは生命の本然の働きであり、それがなくなったら、「生きながらの死」です。墓場に入ったようなものです。

斉藤: 意識しようとしまいと、人間は幸福を求め、価値を求め、功徳を求めている —- たしかに、これは厳然たる事実だと思います。
理論や解釈をうんぬんする前に、この「事実」から出発すべきです。そうでないと、どんな哲学も、実人生と関係のない「死んた哲学」になってしまいます。

────────────────────────────────────────
分別功徳品から
仏希有の法を説きたもう 昔より未だ曾て聞かざる所なり 世尊は大力有して 寿命量るべからず 無数の諸の仏子 世尊の分別して 法利を得る者を説きたもうを聞いて 歓喜身に充編す        (法華経p514)

通解
仏はめったにない法をお説きになられた。昔から未だかつて聞いたことのない法である。世尊には大いなる力があって、その寿命は量ることかできない。無数の多くの仏子は、世尊が分別して、法の利益を得た者を説かれるのを聞いて、歓喜か全身に充満している。
────────────────────────────────────────
遠藤: 仏法では、釈尊以来、「利」を否定したことは一度もありません。
「功徳」を積むことを常に奨励してきたのか仏法です。そもそも功徳の「功(く)」は「功(こう)」とも読み、「幸」のことです。また「徳」は「得」のことです。(「御義口伝」に「功は幸と言う事なり」(御書p762)と。また「徳は得なり」(勝曼宝窟巻上之本)とされる)

須田: もちろん仏法の「功徳」は、目に見える「現世利益」だけのことではありません。しかし、それを否定することは、宗教を実生活から離れた「観念の遊戯」にしてしまう。または、現実生活を向上させる力をもたない「力なき宗教」の弁解になってしまうのではないでしょうか。

■ 煩悩すら そのまま功徳に

名誉会長: ともかく、宗教を「主観」の世界のことだけと見る偏見があることは、たしかでしょう。しかし、仏法は「生命の法」であるゆえに「生活法」なのです。
人生は、主観視すれは「我が生命」であり、客観視すれは「我が生活」です。どちらか一方ではない。
主観に偏れば唯心論的になるし、客観に偏れは唯物論的になる。どちらにも偏らず、「我が生命」を浄化し、強化して、「我が生活」を向上させていくのが仏法です。
また「我が生活」の改善をもって、「我が生命」の向上の証明とするのです。
たとえば「所願満足」と仏法では説く。「所願」は、基本的に客観世界の「我が生活」に関係している。「満足」は主観世界の「我が生命」の満足です。この両者が完全に冥合すれば「所願満足」であり、それが「幸福」です。これが戸田先生の哲学でした。

須田: そうしますと、「所願」が少ない人は、簡単に「満足」できる —- そうなるでしょうか(笑い)。

名誉会長: ソクラテスだったと思うが、「ちょっぴりしか欲をもたないことが、幸福への道」と言っている(笑)

斉藤: ある意味で、小乗仏教は、欲望を滅することによって、「幸福」を得ようとしたと思います。それに対し、大乗仏教なかんずく法華経は「煩悩即菩提」と説きます。
煩悩という「生命エネルギー」を、悪の方向にではなく、善の方向に方向づけていく智慧を教えています。

名誉会長: 大いに欲ばり、大いに目標を高くして、全生命を燃やしていけと教えるのです。「怒りを抑えよ」と説かず、悪に対しては激怒して戦えというのが法華経です。
御義口伝には「三毒の煩悩を此の品(分別功徳品)の時其の儘妙法の功徳なりと分別するなり」(御書p799)と仰せです。「貪・瞋・癡の三毒を捨てよ」というのでは偽善者をつくってしまう。また末法の巨大な悪にとって、こんな都合のいい民衆はない。おとなしく、無力に、翻弄されるだけの民衆であっではならない。
大いに怒れ、大いに情熱を燃やしていけ、妙法を根本とすれば、すべてが価値創造のエネルキーに変わるのだ。これが法華経の哲学です。
ともあれ、「功徳」と言い「罰」と言っても、宗教の専売特許ではない。万人の生活は、「功徳と罰」「価値と反価値」の連続です。商売して、売れれば「得(利)」だし、安く売って損すれば「損」すなわち「反価値」です。「素晴らしい名画を描きたい(美の創造)」という主観が実現したら、主観と客観の冥合であり、「幸福」を感じる。望むように絵が売れたら、「利」の価値の創造です。価値創造できたら、人間は幸福を感じるのです。
そして、「いかなる境遇(客観世界)にあろうとも価値創造できる」大生命力を、我が生命(主観世界)に開発するのが法華経の目的であり、それを人間革命という。

須田: それが真実の「功徳」ですね。

名誉会長: 信仰したからといって、苦しいことが何も起こらなくなるのではない。生きているかぎり、何か問題はある。しかし、何があろうとも「心」は微動だにしてはならない。妙法は「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の法です。
広宣流布に前進していく信心があれば、必ず一切が「功徳」に変わる。その時はわからなくても、時とともに“万事これでよかったんだ”という所願満足の世界に入っていくのです。それを前提にして、三つの章を学んでいこう。まず順序として分別功徳品から。