投稿者:まなこ 投稿日:2015年 9月27日(日)07時02分44秒   通報
法華経の智慧第五巻
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§分別功徳品§
■ 弘教の功徳 —- 我が身に「獅子王の大生命力」が!!

斉藤: 早いもので、「法華経の旅」も三年が経ちました。あっという間です。

名誉会長: 諸君には、あっという間でも、毎月やる私は大変なんだよ(笑い)。
しかし、「生命の世紀」への大事な作業だから、頑張って、総仕上げの探究を開始しょう。

一同: よろしくお願いします。

名誉会長: これから「分別功徳品(第十七章)」「随喜功徳品(第十八章)」「法師功徳品(第十九章)」と、三章にわたって「功徳」という名前がついた章が続く。
全部、妙法の功徳が説かれている。なかんずく、妙法を弘める大功徳が説かれている。「広宣流布に戦う人」の生活、人生は、どうなっていくのか。それが説かれている。その意味で、現代において、これらの経文を実感できるのは、私どもをおいてない。その確信で学んでいこう。まず「功徳」とは、どういう意味だろうか。

須田: はい。「功徳」とは「利益」とほとんど同じ意味としてよいと思います。
「功能福徳」の略とする場合もあります。「功能」とは福利・福徳を生じさせる働きです。「福徳」とは、この功能によって生じた結果です。
善い行動(善行)には、福徳を生じさせる「功能(働き)」か「徳」として備わっている。このことを「功徳」という場合もあります。

■ 功徳は「行動」に備わる

名誉会長: 少々、まわりくどい説明だが(笑い)、要するに、善の「行動」そのものに「功徳」は備わっている。
決して、他から与えられるものではない。自分自身の生命の中から、自分自身の行動によって、泉のごとく滾々と湧いてくる。奔って出てくる。それが「功徳」です。

遠藤: “棚からボタ餅”のような、いわゆる他力本願的な甘えとは違いますね。

名誉会長: 日蓮大聖人は、「六根清浄」によって「功徳」はあると言われている。「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意根)」が「清浄」になるとは、我が生命の浄化です。「人間革命」であり、「宿命転換」です。
(法師功徳品の御義口伝に「功徳とは六根清浄の果報なり(中略)功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり」(御書p762)と)
「成仏する」すなわち「人間革命する」こと以上の大功徳はない。生活上のさまざまな功徳も、自分目身の生命が、浄化された分だけ、依正不二で、さまさまな幸福の現象として現れてくるのです。

斉藤: 根本は、自分目身の生命変革にあるということですね。

名誉会長: 自分が変われば、「さいわいを万里の外より」(御書p1492)集めることかできる。
戸田先生はよく「私が受けた大功徳をこの講堂いっぱいとすれば、諸君の言っている功徳は小指の先くらいのものだ」と言われていた。
広宣流布のために牢獄まで行って、牧口先生とともに迫害を一身に受けた。その「行動」の結果です。大聖人は「悪を滅するを善と云い善を生ずるを徳と云うなり」(御書p762)とも言われている。
自分自身の生命の「悪」をなくし、「善」を生みだしていくのが「功徳」です。
そうなるためには、折伏です。折伏とは「悪」を破折して、「善」に伏せしめることです。

斉藤: “悪を滅し、善を生ぜしめる”行動ですね。その行動によって、自分自身の生命の”悪を滅し、善を生ぜしめる”ことができるということですね。

名誉会長: 反対に「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いいなかるべし」(御書p1056)と大聖人は仰せだ。(法華経の敵を見ていながら、放置して、責めなければ、師も門下も、ともに無間地獄の苦を受けることは疑いない)
折伏です。これから学ぶ三章も、基本は「流通分」に入る。(「分別功徳品の前半」は、本門の正宗分。「涌出品の後半」と「寿量品」とこれを併せて「一品二半」とする)
「流通」とは「流れ通わしめる」ことです。「弘教」です。弘教の功徳を説いているのです。妙法によって、人の幸福に尽くした分だけ、自分も幸福になる。これが仏法の功徳論です。

遠藤: 教えを「流れ通わしめる」のは弟子の使命ですから、法華経のこの章以下は、「弟子の戦い」を説いているわけですね。