投稿者:まなこ 投稿日:2015年 9月28日(月)12時18分44秒   通報
■ 星々の“さまざまな死”

名誉会長: 自己の生命の根源に立ち返ったのです。宇宙全体が、一つの大生命体です。自分もその宇宙生命と一体だとわかった。飛躍するようだが、先日、NASA(アメリカ航空宇宙局)が「星々のさまぎまな死」の写真を発表していたね。

須田: はい。ハッブル宇宙望遠鏡でとらえた写真です。(一九九七年十二月十七日、公表)
星の最期の姿は、「球形」のもの、「風船形」「スプリンクラー形」「蝶々形」「ロケット形」「車輪形」のものなど、さまざまです。

遠藤: 星にも「生」と「死」がある。「生死の二法」のリズムを奏でているということですね。

名誉会長: 恒星の「死」は、星の質量によって違うともいわれている。
太陽と同じくらいの質量の星だと、最期は燃え尽きて、ゆっくりガスを出しながら、やがて、多くは「燃えない星」となるそうだ。白色矮星と言われる星です。

斉藤: 「燃え尽きて」静かに死んでいく —- 人間にもいますね(笑い)。

名誉会長: 一方、太陽の数倍の質量があると、最期は華々しく「大爆発」を起こすと言われている。

斉藤: 超新星といわれるものですね。

名誉会長: そうです。日本の藤原定家の日記『明月記』にも、今の「かに星雲」を生んだ『超新星』の大爆発が記録されている。西暦でいうと一〇五四年(天喜二年)。平安時代の後半です。

遠藤: ちょうど「末法の始まり」とされた年(一〇五二年)の二年後ですね。

須田: 超新星というのは、天空に突然、輝き始めて、昼間でも肉眼で見えるほど輝くものもあるそうです。そのあと、光がまた弱くなっていくわけですが —- 。

名誉会長: この時(一〇五四年)の超新星は、中国でも、アラビアでも記録され、アメリカの洞窟にも、その記録らしい線画が残されているという。

遠藤: かに星雲は、地球からどれくらいの距離ですか。

須田: たしか七二〇〇光年くらいです。

遠藤: そんな遠くの「死」が地球で大騒ぎを引き起こすほどですから、エネルギー満々の、まあ、じつに“派手な死に方”です(笑い)。

須田: そういう死に憧れる人もいるでしょうね(笑い)。

斉藤: 今回発表された写真では、太陽と同じくらいの質量の星にも「多彩な死に方」があるとわかったわけで、興味深いですね。

名誉会長: 宇宙のありとあらゆる存在が、「生きている」。「生死の二法」すなわち「妙法」の当体です。(妙は死、法は生を表す)
物質面だけを見ても、星の「死」によって宇宙にまき散らされた物質が、また次の星の誕生に使われ、生物の体にも使われていく。我々の体をつくっている原子も、かつでは、どこかの星として輝いていたものかもしれない。人間は「星の子」であり「宇宙の子」なのです。我が生命は「宇宙の大生命」と一体であり、南無妙法蓮華経の功徳とは、文字通り、宇宙大の功徳である。はてがない。限界がない。 分別功徳品には「虚空無辺なるが如く 其の福も亦是の如し」(法華経p529)とある。また「誓えば、虚空の東西南北、四維(東北・東南・西北・西南)上下、無量無辺なるが如く、是の人の功徳も、亦復是の如し」(法華経p526)とある。

名誉会長: 御本尊には、無量無辺の功徳がある。無量無辺だから、説き尽くすことはできません。
「祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」(目寛上人の「観心本尊抄文段」)です。その大確信の中に、分別功徳品で説かれる「四信」も「五品」も、すべて含まれている。
(法華経の功徳について、在世の弟子に約して「四信」、滅後の弟子に約して「五品」の各段階を立てる。四信とは(1)一念信解(一念の信心を起こす)(2)略解言趣(説かれたことの趣意をほぼ理解する)(3)広為他説(広く他人のために説く)(4)深信観成(深く信じ真理を観じて理解する)。
五品とは(1)初随喜品(法華経を聞いて随喜の心を起こす〕(2)読誦品(法華経を読誦する)(3)説法品(自ら受持し他人のために説く)(4)兼行六度品(法華経を受持する傍らに六波羅蜜を行ずる)(5)正行六度品(六波羅蜜を本格的に行ずる))
ゆえに、「信心」があれば、乗り越えられない苦難などない。「獅子王の大生命力」がわいてくる。御本仏・日蓮大聖人の御生命がわいてくる。
分別功徳品にも「仏と同じく師子吼して」とある。

斉藤: はい。こうあります。「我未来に於いて 長寿にして衆生を度せんこと 今日の世尊の 諸釈の中の王として 道場にて師子吼し 法を説きともうに畏るる所無きが如く 我等も未来世に、一切に尊敬せられて 道場に座せん時 寿を説くこと亦是の如くならんと願わん」(法華経p521)
((仏の寿命の無量なることを聞いて、そのまま信じ受けいれる人々は、この法華経をいただいて、このように顕う)私は、未来において、長き寿命を生きて、衆生を救済しよう。あたかも、今日の釈尊が、多くの釈迦族のなかの王として、道場において師子吼し、法を説かれるのに恐れなきように、我らも未来世において、すべてのものに尊敬されて、道場に坐す場合には、仏の無量の寿命を説くことにおいて、釈尊のようでありたい、と)