投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月20日(日)08時05分8秒     通報
■ 死後の生命はどのように感じているか

須田: 一つ疑問があります。死んだ人の生命は冥伏していて、「無性無相」と言われます。それでも、死後の生命は苦しみや楽しみを感じているのでしょうか。

名誉会長: その通りです。感じるのです。戸田先生は、「死後の生命を見る機械が発明されたら面白いだろうな」(笑い)と言われていた。
「大宇宙に溶け込んだおやじや兄弟の生命を見ることができれば、実に悲鳴をあげているものもあれば、歓喜に満ちているものもいる。形もなければ、色もなければ、生命自身がもつ苦しさ楽しさのために耐えるのが、死後の生命なので、その空観というものがわからなければ、生命論の本質はわからない」と。

斉藤: そう言えば、発明王エジソンも「死後の生命」に深い関心を抱いていたそうです。彼は、やはりエネルギーが永久に存在し続けるという科学的な法則から推理しても、「不滅の個性」が死後にも存続すると考えました。
1920年には、「『空間の霊気中をさまよう』無数の、微小だが不滅の単子を探知し、記録するための高感度な器具の開発に取り組んでいると発表した」(ニール・ボールドウィン著『エジソン 二〇世紀を発明した男』椿正晴訳、三田出版会)そうです。

名誉会長: それは面白いね。発明王が、死後の生命を感知する機械をつくってくれていたら、それこそ「人類最大の発明」になっていたでしょう。

斉藤: 彼は「あなたがあなたであり、私がエジソンであるのは、私たちに備わる存在物の群れ、あるいは集団、いや何と呼んでいただいてもけっこうですが、とにかくそうした存在物の集まりが異なるからなのです」(同)とも書いています。
これも仏法の眠から見るならば、「それぞれの生命体の個性は、それぞれの業エネルギーによって、五陰仮和合の在り方が異なるからである」と言いかえられるかもしれません。ちなみに彼の最期の言葉は「向こうはとてもきれいだな」でした。昏睡状態にあったエジソンが、突然目を開いて、奥さんにそう言ったのです。

名誉会長: 示唆的な言葉だね。ともあれ、そういう機械ができたら、死後の生命が、自分自身の業にしたがって、善悪の「生命感」を受けているのがわかるでしょう。

須田: それを感じている主体は何なのでしょうか。

名誉会長: それは善悪の業に染められた自分自身の生命流でのものです。刻々と変化してやまない、その生命流以外に自分というものはないのです。しかも、その流れは常に他の生命流と「縁起」の関係によって、互いに互いを生じさせている。だから「無我」です。固定的な実体というものではない。
しかし、にもかかわらず厳然として、自分自身という生命流は存在するのです。

斉藤: その自分自身の生命流を、生命の「我」と表現してもよいわけですね。「空」「無我」という実相を押さえたうえで言えば。

名誉会長: 「生」の特徴は能動性にあるが、「死」の生命は基本的には受動的です。自分で自分の生命実感を変えることはできない。
たとえば、「生」のときであれば、生命の「基底部」が地獄界の人であっても、さまざまな縁に触れて、天界になったり、人界になることもあるでしょう。しかし、「死」の生命は、「基底部」の生命感以外にはなくなってしまう。地獄界の基底部をもつ生命は、死とともに、宇宙の地獄界と一体となって、苦悔一色に染められていってしまう。
餓鬼界の基底部をもつ生命は、飢餓感が一層つのり、生命をさいなんでいく。天界や人界の基底部をもつ生命は、「死苦」を乗り越えた後は、生命の「我」は平穏さを取り戻し、充実した満足感が、ひたひたと包んでいくことでしょう。
仏界を基底部にした生命は、瞬時のうちに大宇宙の仏界と一体になり、その黄金の大歓喜に包まれていくに違いない。そして全宇宙が仏国土であると実感しながら、「我此土安穏 天人常充満」「衆生所遊楽 諸天撃天鼓」の境涯を楽しみ、自らの誓願のままに、「久遠の仏」と一体の活動を生死不二で為していくことでしょう。
この仏界の生死については次の寿量品のまとめでさらに論じることにしたい。