投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月19日(土)18時17分23秒     通報
■ 「生命の波長」に十界の違いが

名誉会長: さあ、そこで「死後の生命」です。これは業の生命流が、「空」の状態で宇宙生命と一体になるのです。
「空」だから、「有」でも「無」でもない。宇宙の“ここ”にあるとか“あそこ”にあるとかは言えない。宇宙生命の全体と一体になっているのです。

須田: 戸田先生は「大宇宙には家のおじいさんの命も、おばあさんの命も存在している。おじいさんとおばあさんが手をつないでいるなどと、そんなことはありません。どこにいるかさっぱりわからないのです」と言われています。

名誉会長: どこにあるのでもない。だから、単純に「有る」とは言えない。しかし、「無い」かというと、生命は縁に応じてまた生まれてくる。死後の生命は「有」「無」の概念を超えているのです。
こういうと神秘的な感じがするかもしれないが、通常の「日常的思考」を超えているという点では、物理学の先端 —- たとえば量子力学でも同じです。光が「波」であると同時に「粒子」の性格をもつというような発見は、日常的思考の枠を超えているといえる。

須田: 「波」と「粒子」では、互いに矛盾するわけですから —- 。それが両方の性格をもっていて、しかも、常にどちらか一方の性格を示すというのですから、不思議です。

斉藤: 「空」の状態の生命を、戸田先生は、ラジオの電波を譬えにして説明されていました。現代人なら、テレビの電波のほうがわかりやすいでしょうか。

名誉会長: そう。今、世界には、さまざまな放送局からいろんな波長の電波が飛び交っている。今、ここにも、日本のいろんな放送局からの電波もあれば、海外からのいろんな電波もある。
いっぱいあるが、受像機があって、見たい放送の波長にチャンネルを合わせれば、音が聞こえ、映像が見える。受像機が「縁」となって、見えない波長が、見える像になる。いわば波長の「死から生へ」の変化です。

須田: 放送は音や映像をいろいろな要素に分解し電波にして伝えられています。しかしテレビの受像機でまた合成されて、もとの映像が再現されます。音も映像も要素にばらばらになっていても、元々、一つのまとまりのものは、まとまって再現されるわけです。「仮和合」の姿に似ていますね。

名誉会長: 人間も生まれるときに、自分自身の業のエネルギーにふさわしい色心すなわち「正報」と、ふさわしい環境すなわち「依報」を得て生まれてくる。
もちろん依正不二で、この二つは一体です。ともに自分自身の業エネルギーの顕現(果報)だからです。
この「死から生へ」について、戸田先生がよく例に引かれていたのが、囲碁の局面です。名人戦などの大きなタイトル戦では、一局の勝負が二日間にわたるね。初日に決着がつかないと、いったん終わる。これが「臨終」に当たる。
しかし、翌日には、再び石が、終わった時とまったく同じように並べられて、対局が開始される。これが「次の生」です。連続しているのです。ゼロから始まるのではない。「続き」をやるのです。だから「生まれ変わる」のではない。
戸田先生は「長い線香が短い線香に生まれ変わったとか、長いタバコが短く生まれ変わったとか言わないでしょう。この生命が、そのまま続いていくのです」とも強調されていた。ご自分の胸をたたきながら、「この肉体が、そのまま続いていくのです」と言われたこともある。どこまでも色心一体の生命が連続することを教えられたのです。
ともあれ、私たちのそれぞれの生命は十界のいずれかです。戸田先生は、その十界の違いを波長の違いに譬えられていた。十界の違いを「生命の波長」とされたのです。そして、宇宙の大生命にも十界がある。その人の臨終の一念が地獄界なら、宇宙生命の地獄界に溶けこむ。天界なら、天界に溶けこむ。

遠藤: つまり、自分の「生命の波長」と一致する波長をもつ宇宙生命の十界のどこかに溶けこむのですね。

斉藤: 「生命の波長」 —- 先ほどの、ユイグ氏が、万物の究極はエネルギーとその波動(リズム)ではないかと言われていたことを思い出しますね。

須田: 溶けこむという、その「溶けこみ方」ですが(笑い)、先ほどの話からすれば、宇宙生命に具わる十界といっても、宇宙のどこかに実体として存在しているものではありません。
冥王星の向こうに八寒地獄があるとか、金星のそばに天界があるとかということではない。としますと、宇宙生命全体に広がって具わっている —- 。

名誉会長: 地獄界でも天界でも仏界でも、宇宙全体です。これは「十界互具」のところでもやったことだが —- 。
そこに溶けこむ各界の生命も、宇宙全体と一つになっている。だからこそ、縁さえあれば、宇宙のどこであっても、直ちに感じ応じることができる。そして、宇宙中からもっともふさわしい色心と環境を選んで、一個の生命として生まれてくるのです。

遠藤: 戸田先生は、宇宙全体に広がっている生命が「片寄ってきてしまえば、衆生として生まれてこなくてはいけない」とおっしゃっています。縁があると、宇宙に広がっている生命が瞬時に一個所に集まって一個の生命になるということでしょうか。

名誉会長: そういう見方をすれば、そういう説明になるね。宇宙全体に広がっているといっても、生命にとってはそれが広いということはないのです。また、芥子粒のような生命体の中にあっても、それが狭いということはないのです。

斉藤: 「総勘文抄」には「芥子の中に入るれども芥子も広からず心法も縮まらず虚空の中に満つれども虚空も広からず心法も狭からず」(御書 p563)と仰せですね。

名誉会長: つまり、実体的に広がっていたのが、無限の空間を超えて集まってくるというのではないのです。
生命は「冥伏している」のであって、「分散している」わけではない。宇宙全体が一つの生命だから、どこであっても、遠いということはなく、一瞬にして顕現するのです。そこを誤解してはいけない。

遠藤: むずかしいですね。