投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月19日(土)07時00分44秒     通報
■ 業の連続性を担う「阿頼耶識」

須田: その業のエネルギーが、生死を超えて流れていくとします。
業には善業と悪業がありますから、各生命体の過去世からの善悪の業力(エネルギー)によって、現在の「生」の姿が決まっていくわけですね。

名誉会長: そう。プラス(善)のエネルギーと、マイナス(悪)のエネルギーのかね合いで、生の「かたち」が決まっていく。

遠藤: 業力の果報として、頭がよく生まれたり、美しく生まれたりする —- これは自分自身の主体への果報ですから「正報」です。けんかの絶えない家に生まれたりするのは「依報」としての果報となります。
戸田先生は、こう言われています。「過去世に行った自分の行状というものが、自分の生命のなかに全部含まれてくるのであります。ここに仏法の大事さがあるのであります。『まえにやったことは関係ない。おれは新しく生まれるのだから』と、こういいたいでしょうけれども、そういうわけにはいきません。
なぜ貧乏人に生まれたのだ、なぜ頭が悪く生まれたのだ、こんなに商売を一生懸命にやっているのに、なぜうまくゆかないのだろうかと —- 。みんな過去世にあるのであります。過去世にあるが、それをどう打開するかということが大聖人の仏法なのであります。
生理学上われわれの生命というものは、五年間たつと、目の玉の芯から骨の髄まで細胞が変わってしまうのであります。これは今の医学で認めているところであります。だから五年前に借金したのは、払わなくてもいいことになるのですが、それでカンペンしてくれればよいのですけれども、借金取りはきちんと取りにきます。過去のわれわれの行動は、未来において責任をおわなければなりません。
それは理屈のうえではわかりますが、実際問題としては困ります。そこで大聖人のおおせには『あなた方は薄徳の人だ。だがこの大御本尊様を拝めば、過去世でどんな悪いことをしてあっても全部許されます。そして、善いことをしたのと同じ結果が現れる』と。ですから信心が大事になってくるのであります」と。

斉藤: 生命を支えている業のエネルギーが、すべて現在、表面に出ているわけではありません。しかし、今世とはかぎらなくても、いつか、そのエネルギーは何らかの果報をもたらします。ここでのテーマに沿って言うと、この業エネルギーが、どのように死後も続いていくのか、それが問題です。

名誉会長: そのことを緻密に説いたのが、「九識論」でしょう。

斉藤: そうですね。唯識論は、現代の心理学にも大きな影響を与えるほど、人間生命の内奥を明かしていますが、そもそも「無我説と輪廻説の矛盾を解決する」役割をも担っていました。

須田: 九識のうち、初めの五識は、いわゆる五根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根)に基づいた眼識・耳識・鼻識・舌識・身識です。
感覚・知覚作用である、これらの五識を統括しているのが第六識の意識です。これは物事を推理・判断する知性の働きです。私たちの日常生活は、ほとんどこの六識までで営まれています。

遠藤: そこから、さらに踏み込んで第七識の末那識、第八識の阿頼耶識を立てています。これはいわば無意識の領域です。

名誉会長: 業の連続性は、この第八識が担っているわけだ。

斉藤: 阿頼耶識ですね。第七識までは、死んでしまうとその働きは停止してしまいますが、第八識は三世にわたって働き続けます。「阿頼耶(アラヤ)」という言葉は本来、「在りか」という意味です。業が貯蔵される在りか、蔵ですから「蔵識」とも訳されます。