投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月18日(金)18時46分34秒     通報
■ 「業のエネルギー」が続く

斉藤: そこで問題は、死後、何が続いていくのかです。特に、仏教では霊魂などの実体を否定し、「無我」と説きます。永遠に不変の「我」は実体としては存在しないというわけです。
その一方で、死後の生命を説き、ある意味で「輪廻転生」を認めている。この二つは矛盾するのではないかということです。

名誉会長: 仏教発祥以来の古い疑問です。これを仏教史を通して論ずると興味深いが、煩雑になるので省きます。ただ「空」の思想も、「唯識」学派の探究も、この問題意識と深く関わっていたことだけは言っておきたい。
死後、何が続くのか? —- 結論を言えば、釈尊の答えは「業相続」でした。現在は過去の行為(業=カルマ)の結果(果報)であり、現在の行為が未来の生の在り方を決定する。つまり、行為(業)の影響が次々に生死を超えて受け継がれていくということです。

斉藤: 業 —- 「身口意の三業」というように、色心の「行い」のことですね。「したこと」「言ったこと」「思ったこと」。それらの影響が少しも消えることなく、すべて未来へ続いていくということですね。考えてみれば、厳粛なまでに厳しい教えです。

名誉会長: そうです。現代人にわかりやすく言うと、「業のエネルギー」が生死を超えて続いていくのです。

遠藤: 「エネルギー」で思い出したのですが、物理学の法則に「エネルギー保存の法則」があります。エネルギーは「不生不滅」だということです。
熱エネルギーが運動エネルギーに変わったり、位置エネルギーが電気エネルギーに変換されることはあっても、無から突然、エネルギーが生れることはなく、今あるエネルギーが突然に消えることもありません。ただ、姿を変えるだけです。

須田: 「物質」にしても、それは「エネルギー」が安定した姿なんですね。たしかに「エネルギーこそ究極の実在」と言われるのも理由があります。

名誉会長: ルネ・ユイグ氏も名著『かたちと力』(潮出版社)の中で、そのことを論じていた。〈ユイグ氏(1906年~97年)はフランスの美学者。名誉会長と対談集『闇は暁を求めて』(講談社ならびに聖教文庫)を出版〉
ユイグ氏によると、原子の世界から大宇宙の生成まで、「かたち」と「力」という原理がダイナミックに貫いているという。芸術の創造という高度の精神作用も例外ではないというのです。
「力」とは、今の場合、エネルギーの別名といってよい。そのエネルギーが、何らかの作用で、安定した「かたち」をつくる。
その「かたち」に込められたエネルギーが作用を続行すれば、また別の「かたち」を取ったり、エネルギーそのものへと戻っていく。
仏法の眼で見れば、「力」とは、「空諦」の面でしょう。「かたち」とは「仮諦」の面です。

斉藤: そうしますと、「生と死」で言えば、業のエネルギーが、仮に一定の「かたち」をとったのが「生」であり、その「かたち」をくずして、エネルギーの流れそのものとして宇宙の生命流に溶けこんでいくのが「死」と考えてよいでしょうか。

名誉会長: 比喩的に言えば、そう言えるでしょう。もちろん、その「かたち」も刻々と変化を続けているのです。

遠藤: 「エネルギー保存の法則」をもじって言えば、「カルマ(業)保存の法則」と言えそうですね。

名誉会長: 興味深いのは、ユイグ氏が「力(エネルギー)」が「かたち」になるための重要な要素として「波動」を挙げていることです。そのエネルギーがもっている、それぞれの「波動」「振動」「リズム」によって、「かたち」が決まってくるという。
有名な「サイマティクス(波動形態学)」の実験をもとにした話です。

斉藤: 「サイマティクス」というのは、円盤の上に、液体や粉末、金属のくず等をばらまき、一定の振動を与える実験をするのですね。
すると、周波数がある段階に達すると、粉末などは、盤上で一定の模様を描き始める。らせん型とか渦とか、樹木状、六角形、鱗などの模様になるというのです。

名誉会長: しかも、有機物の「かたち」を示すことも多い。たとえば「さんごの芽や枝」「ソラマメ」「貝殻」「魚の骨」「亀の甲羅」「蜂の巣の六角形の房室」などです。
これらを通して、ユイグ氏は、あらゆる存在にあるのは、エネルギーと、その振動(リズム)ではないかと洞察しています。それぞれの生命体に固有の「生命の波長」があるのかもしれないという洞察です。
もちろん「業のエネルギー」は「物理的エネルギー」とは違う。色法にも心法にも影響を及ぼす「潜在的な生命エネルギー」です。だから、あくまで生死の二法の実相を類推する手がかりと考えてもらいたい