投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月18日(金)12時58分6秒     通報
■ 「臨終の相」に医学的裏付け

斉藤: 学会の中には、そういう体験が無数にあります。見事な臨終の相で穏やかに亡くなられている方が実に多い。病気で亡くなっても苦しまなかったとか、不慮の事故で亡くなっても眠るような表情だったという話もよく聞きます。

須田: 葬祭業の仕事をしている人から聞いたのですが、「確かに死化粧というのはあるが、どんなに繕っても死相を根本的に変えることはできない。こればかりは、お金で買ったり、地位で得ることは絶対にできない。いろいろ見てきたけれど、結局その人の生きぎまが、そのまま反映しているのではないかと思えてならない」と言っていました。
学会の葬儀は、参列者の雰囲気も、やはり違う。送る人も、心からその人の死を悼んでいることがわかって、「ああ、故人が人を大切にしてきたからなんだな」と感じることがあるそうです。

遠藤: 特に、人のために動いてきた方の葬儀は、参列者が後をたちません。社会的には無名なのに次から次に参列者が来るので、信心をしていない遺族や町内会の人が、あらためて故人の偉大な足跡を知ったという話をよく聞きます。

名誉会長: 死んでからも折伏しているんだね。見事です。その方々こそ“庶民の英雄”です。「是の人命終せば、千仏の手を授けて、恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもうことを為」(法華経 p667)と法華経(普賢品)にある通りだ。
〈この人は命を終わる時、千の仏が手を授けて、恐怖することなく、苦悩の境涯に堕ちないようにさせてくださるのである〉
広宣流布へ戦った庶民の英雄を、千仏が賛嘆する。千仏とは、故人のために唱題する多くの人々のこととも言える。もちろん、大事なのは、送る人の人数ではない。故人を包む真心の唱題です。同志の真心の唱題に送られていくことほど、霊山への最高の旅立ちはありません。

須田: 1996年に亡くなられた八王子の山口はる江さんの体験を聞きました。長年、地域広布の中心者として戦い、本当に大勢の人に送られて葬儀が営まれました。
六十五歳で亡くなられた時の穏やかな顔は地域でも評判になりました。葬儀の関係で五日間、遺体を家で安置されていたのですが、日ましに顔が綺麗になっていったというのです。おでこのシワもなくなり、若返って見えました。「童女のように微笑んでいる、本当に、そんなお顔だった」と訪れた人は一様に驚いたそうです。
昭和三十年(1955年)の入会で、八年前に肺腫瘍で手術をしましたが、退院後も、生き生きと八王子の天地を走っておられたようです。

名誉会長: よくうかがっています。八王子だけでなく、第二東京の多くの人たちから信頼が厚かったようだね。

須田: 時間があれば地域の学会員のかたと懇談したり、電話をかけて人を励まし続けていました。いつも賑やかなくらいお元気で、ある人が「山口さんは、なんでそんなに明るいんですか」と聞いたことがあった。すると「人の悩みを解決しようと唱題をするおかげです。人を励ませば励ますほど、ますます自分の生命力が豊かになっていると思うわ」と語っておられたといいます。
いつも部員さんを明るく激励されていたので、突然の死に、誰もが驚きました。生前、よく「永遠の生命なんだもの。どうせなら、花が散るように死んでいきたいわ。皆に迷惑をかけないからね」と言っておられたそうです。
亡くなられる時は、すーっと意識が遠のき、苦しみも、まったくなかった。そして、先ほどご紹介しましたように、本当に穏やかな顔で、まるで人を励ましているようだったといいます。

斉藤: 臨終の相で、また皆を激励しているのですね。

遠藤: 日蓮大聖人は、臨終の相に「死後」の状態が表れていくと言われています。「善人」は顔色も白くなり、体も軽く、柔らかくなる等と仰せです〈御書 p1316〉。どういう場合に、顔色がよくなることが多いか、ターミナル・ケア(終末医療)の専門家の方にうかがったことがあります。
要約しますと、満足感をもって安心して亡くなる場合は、大体、血管が開いた状態だそうです。すると、血液の凝固と筋肉の硬直が比較的遅くなる。だから、顔色が白く、体が柔らかい。
ところが、後悔や無念さを抱いて苦しみながら亡くなる場合、拳を握り締めたような形になるので血管が収縮した状態になる。すると、血液の凝固と筋肉の硬直が早く始まり、色が黒く、体が硬くなるという話でした。
成仏ということとは次元が違うかもしれませんが、一般的な傾向として、死を迎えた時の心の状態が、その人の亡くなっていく姿に現れるのではないかというのです。

名誉会長: 臨終の姿の相違が医学的にも、ある程度、裏付けられるということだね。
もちろん、妙法の功徳は一切の罪障を消しているのですから、信心に励んでいる人は何があっても、心配する必要は、まったくない。たとえ事故などで亡くなった場合であっても、生前に強盛な信心があれば成仏していけることは間違いない。