投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月18日(金)06時31分25秒     通報
須田: 「息が絶えても、しばらくは、亡くなった人の耳に題目を聞かせてあげなさい」とも言われています。
つまり「死ても底心あり」ということで、当時は呼吸が止まれば「死」とされたのに、その後もしばらくは、生命の奥底に心が残っている。その心に題目を聞かせてあげなさいと言われているのです。

遠藤: 「生から死へ」の移行は、一瞬になされるのではなく、次第に推移していくと見ているわけですね。

名誉会長: 「死」を、連続的な「過程(プロセス)」と見ている。

斉藤: その過程とは、肉体の面で言えば、体が「有情」から「非情」へと移っていく変化と言えます。途中までは何かのきっかけで、再び「生」の方向へ転ずる可能性もあります。しかし、ある段階を越えると、二度と「生」に転ずることはなくなると思われます。前に取り上げた臨死体験は、もちろん、戻ることができる段階の体験です。

須田: 二度と逆戻りしない地点を越えて、生命は遂に完全な「死」へと向かいます。この地点のことを、古来、「三途の川」という表現で示してきたのかもしれません。

名誉会長: 生命体が「生」から「死」へ向かう時、何が起きるのか。仏法では、一個の生命体を、心身の働きが「仮に和合したもの」と見る。

遠藤: 五陰仮和合ですね。

名誉会長: 五陰のうち「色陰」は生命の物質的側面です。「受陰・想陰・行陰・識陰」は精神作用です。
〈「受」は眼耳鼻舌身意の六根を通して、外界を受け入れる心的作用。「想」は受け入れたものを知覚し、想い浮かべる心的作用。「行」は想陰に基づいて何かを行おうとする心の作用。「識」は受・想・行陰の作用を統括する根本の心的活動〉
「生」の力とは、こうした色心の働きを「和合」させる力です。和合し、統合し、外界に向かって能動的に活動させていく。

遠藤: 確かに色法だけを見ても、宇宙の物質を集めてわれわれの身体はできています。

名誉会長: 人体の細胞は、一説には六十兆個とも言われる。それらが新陳代謝を、常に繰り返している。いわば細胞次元での「生と死」を繰り返している。生死の二法です。
それでありながら一個の生命として、厳然と統合され、秩序立って活動しています。それが「死」に向かうとき、生の統合力が失われ、「仮に和合していた」五陰の和合が、ほどかれていく。色心の働きは「潜在化」していきます。
また肉体を支えていた五大(地水火風空)の統合が失われていきます。

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如来寿量品から
「衆生劫尽きて 大火に焼かるると見る時も 我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり 園林諸の堂閣 種種の宝をもって荘厳し 宝樹華果多くして 衆生の遊楽する所なり 諸天天鼓を撃って 常に衆の伎楽を作し 曼荼羅華を雨らして 仏及び大衆に散ず」(法華経 p508)

衆生が「世界か滅んで、大火に焼かれる」と見る時も、私の住むこの国土は安穏であり、常に喜びの天界・人界の衆生で満ちている。そこには、種々の宝で飾られた豊かな園林や多くの立派な堂閣があり、宝の樹には、たくさんの花か咲き香り、多くの実がなっている。まさに衆生か遊楽する場所なのである。多くの天人たちか、種々の楽器で、常に妙なる音楽を奏でており、天空からは、めでたい曼荼羅華を降らせ、仏やその他の衆生の頭上に注いでいる。
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須田: 「臨終用心抄」では、「断末魔の風が身中に出来する時、骨と肉と離るる也」とあります。体の中を風が吹き抜けて、五体をバラバラにするように感じるのでしょうか。実際、そういう臨死体験もあります。
その時に受ける苦しみを「死苦」と呼ぶわけですが、日寛上人は、死苦について「善業有れば苦悩多からず」と言われています。

名誉会長: 死ぬ時に苦しまない —- これだけでも信仰の偉大なる功徳です。どれほど、ありがたいことか。