投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月17日(木)21時28分20秒     通報
永遠の生命とは(上)
■ 死後の生命 —- 宇宙生命との融合

斉藤: 「生命の永遠性」を考えれば考えるほど、わからないことにぶつかります。その代表は「死後の生命」です。死によって、肉体が滅びることは眼前の事実です。それでは何が残るのか。何が「永遠」なのか。何が死後まで続いていくのか。

遠藤: ええ。既に、「死ねば何も残らない」という考え方には根拠がないことを取り上げました。つまり「断見」の否定です。それでは、肉体とは別に、不変の「魂」のようなものがあって、それがずっと続いていくのかというとそうでもない。

須田: 「常見」の否定ですね。死んだ後、フワフワとうろついている霊魂のような「実体」はない、と。

斉藤: 仏教の「死後の生命」というと、この霊魂説のことだと思っている人が多いようです。「仏教では霊魂を否定している」と言うと、驚く人が多いようですね。

須田: では、霊魂でないとすると、何が続いていくのか。これが難問です。

名誉会長: 戸田先生はよく「われわれの生命は、死後、大宇宙に溶けこむんだ」と言われていた。霊魂ではなく、色心不二の生命そのものが大宇宙に帰っていく。
大宇宙そのものが、一つの大生命です。大生命の海です。あらゆるものを育み、あらゆるものを生かし、働かせ、死せるあらゆるものを、再び、その腕に抱きとって、新たなエネルギ-を与えていく。満々とたたえられと大生命海がある。その海は、常に動いている。動き、変化しながら「生」と「死」のリズムを奏でている。
私たちの生命も、大宇宙という大海から生まれた「波頭」のようなものです。波が起これば「生」、また大海と一つになれば「死」です。永遠に、これを繰り返していくのです。人間の生命だけではない。
日蓮大聖人は、「天地・陰陽・日月・五星・地獄・乃至仏果・生死の二法に非ずと云うことなし」(御書 p1336)と仰せです。
「天地・陰陽・日月・五星」とは、いわゆる天体の世界でしょう。星にも誕生があり、死がある。寿命がある。一つの銀河にも誕生があり、死があり、寿命がある。生死の二法です。ミクロの世界も同様です。また地獄界から仏界という「法界」にも生と死がある。あるときは生の地獄界となり、あるときは死の地獄界となる。
また大聖人が門下の南条時光のお父さんにっいて、「いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり」〈生きておられた時は生の仏、今は死の仏。生死ともに仏です〉(御書 p1504)と仰せのように、即身成仏の仏果は死をも超えて続く。全宇宙のありとあらゆるものが「生死の二法」の永遠のリズムを織り成しているのです。
さあ、そこで、この「宇宙に溶けこむ」という死後の状態が、いかなるものか。さらに探求してみよう。まず順序として、「生から死へ」すなわち「臨終」について考えてみてはどうだろうか。
■ 五陰の和合がとかれていく

須田: それでは、ひとつの手がかりとして、「臨終用心抄」を見てみたいと思います。
これは日寛上人の説法を記録したとされるものです。〈「富士宗学要集」第三巻〉
文字どおり、「臨終」を迎えるに当たっての「用心」が書いてあります。

遠藤: 「病人の周りに酒に酔った人を近づけてはならない」とか、「大勢で騒がしく取り囲むようなことは避けなさい」とか書いてあります。これは、死にゆく人の静穏を乱してはならないということですね。

名誉会長: 「臨終」の際の「一念」が、どこに向いているかで、宇宙の何界に溶けこんでいくかが大きくが左右されてしまう。そこで、臨終の一念を、一心に妙法へ向けさせていく「用心」が示されているわけです。

斉藤: 「病人が執着を残すような財宝をそばに置いてはいけない」とか「執着を起こさせるようなことを話してはいけない」「腹を立てさせてはいけない」などの用心も、一心に妙法へ心を向けさせるためです。