投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 9月18日(金)19時31分34秒     通報
>しかし「終焉」こそが、新しい歴史の始まりです。<

今回の一連の出来事を通して見えてきたもの、それは、創価学会は未だに、「54年体質」であるという事実です。本質的な部分は何も変わっておらず、54年の戦いは継続中だったわけです。池田先生が、創価学会の発迹顕本を頼むと言われたのも、まさにこの抜本的な問題である、「体質」を変革することを託されたのだと思うのです。

変毒為薬や宿命転換といっても、まず、毒が炙りだされなければ転換することはできない。54年の体質が、教義変更、安保法制という形となって具現化したわけです。起きるべくして起きた問題であり、偶然ではないでしょう。逆に言うと、ここから真の創価学会のあるべき姿も垣間見ることができるのです。いよいよ54年という迹をはらって本地を顕わす段階に入りました。

54年の体質と一人戦われたのが池田先生です。先生自らが、「師匠は私である」と宣言されたことは、甚深無量の意味があります。もちろん先生は立場上、「会長を中心に」と言われるのは当然ですが、例えばこれは、区長が支部の会合に入ったのならば、「支部長を中心に団結していってください」と呼びかけるのと同じであり、まさか区長が、「私を中心に団結していってください」と、言うわけがない。これを言ったら支部長の顔をつぶすことになり、池田先生も同様、実質的に創価学会の指揮を執っている会長の顔を立てているわけです。これ、一般的な、常識ある振る舞いであります。

池田門下は池田先生を中心に団結していくことが肝要であり、先生がいくら「会長中心に」と言われても、根本は先生なのです。断じて原田門下なのではないのです。これをはき違え、「先生に認められた会長に従うことが正しい」と安易に考えるのは危険である。創価学会の組織上の中心者と、師弟関係にある先生と、同次元で考えるところから間違いが生じる。会長は中心者ではあるが、指導者ではない。指導者は三代までであり、これからは、代々の会長が間違い(先生の指導と違う振る舞い)を犯したのならば、声をあげていかなければならない。そうでなければ54年同様、再び先生を見殺しにすることになるでしょう。

創価学会は広宣流布を推進する団体であり、仲良しクラブではありません。幹部の腐敗堕落も大目に見て、「同志なのだから」、「人間革命の途上なのだから」と許してしまえば、かえって広宣流布は破壊されてしまいます。もちろん細かいすべてのことを一々責め立てるとかそういう類の話ではありません。それではギクシャクした世界になってしまいます。そんな浅い次元の話ではなく、厳しさと優しさ、両面備わってこそ真の団結ということです。

新しい時代とは、羊の団結から、獅子の団結へと進化を遂げていくことだと思います。それこそが真の創価学会の団結であり、上からの指示に従えばいい、それが団結だと勘違いしている段階を越えていかなくてはなりません。団結ひとつとっても奥が深く、もう一歩深く踏み込んで思索する必要があるのです。いよいよ「54年体質」を打ち破る、壮絶な戦いの火ぶたは切られたのです。