投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 9月21日(月)01時11分14秒     通報
真の宗教は、民衆を賢くし、自立させていく。釈尊の遺言である自灯明・法灯明の原理は、「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生きなさい」との言であり、まさに「自立した個であれ」との宣言です。組織の方針、周りの空気以前に、「自分はどう思うのか」がなければ他者任せである。

今は時代の転換点であり、安保法制を機に、民衆が目覚めてきました。今回露わになったのは、創価学会・公明党の体質であり、端的に言うのであれば「上の方針に従え」ということです。私は、上の方針に従うことをどうこう言っているのではなく、一人の人間として自分自身で考えた結果、上の方針と合致しているのであれば、その信条は重んじます。しかし、思考せず、ただ上に合わせていく姿勢は恐ろしく、そういう人は自分の言葉を持たない。上の方針が正しかろうと、正しくなかろうと、自分の頭で思考することこそが大事であり、21世紀は「自分が主役の時代」なのである。

現代は、ネットの普及により、世界はつながりました。それに伴い、益々個が輝く時代となり、特定の誰かではなく、民衆一人ひとりが思想を世界に発信できます。すごい世の中になりました。民衆どうしが連帯することも可能であり、「上の方針に従え」などというものは一切通用しない時代なのです。異質が当たり前であり、それを排除することは許されない。であるならば包含していくしかなく、一昔前は、異質(周りと違うこと)を弾圧し、つぶしてしまえばよかったというか、誰にも気付かれなかった。それで、一応の秩序を保つことはできたでしょうし、ごまかしが通用した時代といったところでしょう。

これからは、より洗練された民衆の台頭であり、その中で、創造的人間が育まれる。まさに、創価的な流れこそが時代の潮流であり、「創価の時代」と言っても過言ではない。しかし、その先頭を走るべく創価学会の体質が、そういった新時代の民衆を弾圧するようなレベルであることが何とも残念である。その根っこの部分を変えられるかどうかが戦いであり、変わらなければ滅びるだけである。創価学会の体質の象徴こそが54年であり、池田門下が断ち切らねばならない。

第二の草創期は始まったばかりであり、決して愚かであってはならない。天台宗の、慈覚・智証のようになってしまったら大変である。愚かな仏弟子が、仏法を滅ぼした歴史を知らない活動家も多い。無学は闇であり、知らないということ自体が敗北に通じてしまう。知らなければ思索することすら出来ず、トップの判断が誤っていたとしても、何が間違っているかもわからず従うしかなくなる。そうやって天台宗は邪教となっていったのと同じように、創価学会も他人事ではない。もしもリーダーが、慈覚・智証を他人事として考えているようであれば危ない。

いくら善意であっても、信じたものが間違っていたら人は不幸になる。無知な人は、権威ある人が発言したら、「そうなんだろうな」と簡単に信じてしまう。指導者なき時代を生きるということが、一体どういうことなのか。一人ひとりがよくよく考えなければならない。頼るべきものがなくなってからが始まりであり、草創とは、自分を信じて突き進むことを意味するのではないか。いつまでも、先生におんぶに抱っこなどあり得ない。新時代においては、自分の言葉で語ることのできない、組織人間からの脱却ができて一歩目といったところでしょう。

民衆一人ひとりが目覚めること、所謂、「覚醒」していく流れはできました。疑問がなければ「気づき」を得られない。気づきがなければ覚醒することはできない。動執生疑こそが、覚醒のカギであり、疑い抜いた先に、本当の信があります。54年の決着もまた、一人ひとりの覚醒にかかっていると言えましょう。