投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 9月18日(金)13時08分22秒     通報
今回、公明党は結果的に、民主主義、立憲主義を破壊する片棒を担いでしまいました。これは一体何を意味するのか。宗教政党から、普通の政党になったことを意味するのではないかと考えます。宗教政党の大義である、「立正安国」の正法を立てるとは、法華経の精神を根本とすることであり、それは、生命尊厳、一人の人を大切にするということです。一人の人を大切にとは、民衆一人ひとりの声を聴くことであり、では、今回そういう振る舞いであったかどうか。ふたを開ければ、民衆の声を足蹴にし、一方的な姿勢を貫いてしまった。これ、宗教政党における死を意味します。

もっとも大事にすべき民主主義を破壊し、大衆からかけ離れた公明党に、立正安国の精神はなく、政治という現実を重視する「普通」の政党となったので、これからは所謂、「法戦」という枠組みではなくなります。公明党を支援することは法戦ではなく、単に、普通の政党を支援するということです。ですので、支援活動を学会活動として推進する大義はありませんので、システムの抜本的な見直しをする必要があるでしょう。

創価学会が公明党の支援団体であることは変えなくても構いませんが、会員の政治信条は千差万別であり、一つにまとめることはできませんし、する必要もありません。普通の政党を支援することは、学会活動としては認められませんので、完全自由化しなければなりません。支援したい人だけがするということ、それを形にすると、「報告のすべての撤廃」です。こうしなければもはや収まらない事態であり、公明に反対の人は、支援期間中は学会活動できないことにならないためにも、システムを変えなければなりません。

政治信条が異なっても、団結できるシステムを構築することが体制側の責任であり、何も難しいことではなく至極簡単です。報告を撤廃するだけでいいのです。それで大部分の問題は解消されます。結党50年という節目で、宗教政党を捨て、普通の政党へと独自に進化した公明党。どうぞこれからは自分自身の足で立ち、支持を拡大していただきたい。今までどれだけ学会員に守られ、支えられてきたか。支援活動を機に、組織を離れていったメンバーがゴマンといる中で、それでも学会活動の柱として推進してきたのが支援活動です、それがなくなれば、ほとんどの活動家は、内心ほくそ笑むと思います。つまり、誰も困らないということです。

公明党のたった一つの敗因、それは「民衆を怒らせた」ことです。権力側となり増長した結果、立正安国の精神を捨ててしまった。一昔前、私はある議員に質問しました。「なぜ、反逆するような人間が党首に選ばれるのか?」と。議員曰く、「そういう体質だからだと思う」と。さて、その体質とは一体いかなるものなのであろうか。謎である。

実力があろうとなかろうと、学会という組織の力で当選してしまう議員。本来は、分不相応であり、それを自分の力であると錯覚していたとしたら、とんでもない間違いである。増長した人間は、変なスイッチが入り、意見を真摯に聴かなくなる。党員が命を削って集めた著名ですら、門前払いしようとする姿勢。ここに法華経の精神があるというのだろうか。たとえ、自分たちにとって都合の悪いことであろうと、心を踏みにじるようになったらおしまいである。そして悪気もなく言うだろう。「ただ、党の方針に従っただけである」と。これぞまさに54年の命なのである。