投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 9月17日(木)14時21分46秒     通報
>同志ですので、協力しましょうね。
普段から、我々は、守ってもらってるんですからね!<

議員は国民の公僕であり家来です。家来が王を守るのは当然であり、「守ってもらっている」わけではありません。むしろ逆であり、公明議員は、学会員が、「勝たせてあげている」、「支援してあげている」という立場であり、議員が偉くなってしまったら本末転倒であり、そこから崩れていきます。

政治の世界は魑魅魍魎であり、権力の魔性がうずまいています。議員に対しては、所謂、現場の同志への「慈母」の対応ではなく、「厳父」の対応でなければ、勘違いし、狂ってしまいます。議員を絶対に偉くさせないのが創価学会の支援の在り方であり、おかしくなったのならいつでも手を引きます。王が家来を叱り飛ばすのは至極当然であり、家来ごときが調子に乗り、王(民衆)の言葉に耳を傾けなくなったら、それを反逆といいます。

「支援してもらうのが当たり前」などと、議員が仮初めにも思うようになったら、権力に毒されている証拠であり、「立場わきまえろ」と叱責する必要があります。末法は転倒の世であり、すぐに本末が転倒する。「何のため」を見失い、暴走するからこそ「政治を監視」し、諌めていく。これ、王の役割であります。

慈母の振る舞いの優しい学会員が、かえって議員を勘違いさせ、調子に乗らせてしまいます。政治は結果責任であり、「同志なのだから」という甘えは厳禁です。「監視」は厳父の振る舞いです。同志という甘えを捨て、厳しく評価していかなければ、間違えの元となります。議員とは監視され、批判されるのが当たり前のポジションであり、王は家来に「任せている」のではなく、「やらせている」のです。権力者を王としてしまうところに魔が付け入り、それは王(民衆)の逆鱗に触れます。それが現実にデモという形になり、「民主主義って何だ?」という声になっているわけです。

「大衆のために」が公明党の立党精神であり、それにも関わらず、大衆を馬鹿にし、傲慢な振る舞いをしたのならば、叱り飛ばさねばなりません。慈母の優しさは、権力の魔性をかえって増長させてしまいます。議員が頑張るのは当たり前であり、民衆に尽くすのが役割です。応援したいと思わせることができないこと自体が、議員としての敗北なのです。

戸田先生の「心して政治を監視せよ」という言葉の、「心して」が大事です。支援政党だからといって肩入れすることなく、中立に、冷静に政治を監視していく姿勢であり、「同志だから」という感情論で見ないということです。創価学会においては、会内の雰囲気や打ち出しに合わせるのではなく、一人の人間として判断していくこと、それこそが民主主義の土台です。多数派に流され、思考停止させてしまうことほど恐ろしいことはなく、自身の「時流に流される命」を切ることが信仰者の生きる道です。

一人ひとりの会員が自立し、自身の頭で物事を考え、評価する。そしてそれでも支援したいと思える政党に変わった時こそが、公明党は日本の柱となるのではないか。慈母の会員のおんぶに抱っこの政党では、いつまで経っても自立することはできない。今、まさに、その転換期を迎えているのではないでしょうか。