投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 9月16日(水)12時35分56秒     通報
54年の問題を考えるに、理の上での総括は難しいことではないが、事の上での総括は極めて難しい。54年を仏法的観点で見るならば、衣の権威に屈した弟子、即ち、「弟子が天子魔に敗れた」歴史であります。

御書P1487 通解
「雨の時に雲があるように三障四魔といって七つの大きな障魔が現れてくるのである。たとえ辛うじて六つは通過したとしても、第七番目(天子魔)に破られたならば仏に成ることは難しい」

魔における最強は天子魔であり、自分よりも力関係が上の何かである。組織上は、上位役職者も含まれ、また、組織の空気や体質も上位となる。54年の最高幹部並びに職員といっても、組織の中では百戦錬磨の長であり、折伏も教学も学会活動も、今の幹部に比しても遜色はないどころか、草創期の激動を走り、学会を発展させてきたメンバーだったでしょう。あらゆる訓練にも耐えた、所謂たたきあげであり、生きた体験もたくさん有していたことでしょう。それでも、先生を裏切り、権威に屈してしまった歴史というのは重く、それだけ天子魔に打ち勝つことの難しさをあらわしていると言えましょう。

一方、熱原の法難は、弟子が天子魔に打ち勝った歴史であり、だからこそ三世永遠に輝いています。この弟子の戦いをご覧になった日蓮大聖人は、「これで広宣流布はできる」と確信されたことだと思います。天子魔を打ち破るには、師子王の信心でなければ土台無理です。創価三代に連なる師子王の信心、即ち、「師弟不二」こそが究極であり、それを体得できるかどうかにかかっている。師と弟子が一体であってこそ師子であり、それがなかったから54年は、天子魔に敗れたわけです。

天子魔という最強の魔との闘争こそが、これからの戦いであり、現実に、天子魔を打ち破ってこそ54年の事の総括となる。学会の中枢や公明党、多くの幹部が天子魔に魅入られ、狂っていってしまうかもしれない。しかし、名もなき一学会員が天子魔と戦う信心へと目覚めていくこと、これこそが本当の広宣流布であり、新時代であります。天子魔と戦ってこそ仏であり、戦うということは「難に遭う」ということです。

どれだけ学会活動しようと、天子魔と戦う信心を体得しなくては、一生成仏の境涯を構築することはできない。権威、権力に屈してしまう、自身の弱い命との闘争こそが信心の真骨頂であり、究極でしょう。天子魔に魅入られた人間は、どれだけ横柄で傲慢な態度を取り、民衆を馬鹿にし、侮るか。そして、自分たちを正当化するために、民衆を悪と決めつける。この構図はいつの世も変わることはないでしょう。

今までは、池田先生自らが、創価学会総体における天子魔と戦ってこられたからこそ学会は守られ、発展してきました。魔は目に見えず、知らず知らずのうちに浸食していきます。それを防ぐために、先生は最高幹部を厳しく呵責してきたわけです。それがなくなれば、天子魔の自由であり、やりたい放題となる。これからは一会員が幹部を叱り飛ばす時代であり、天子魔を食い止めていかなくてはなりません。宿坊の掲示板はその先駆けであり、そういうチャンネルです。これが理解できるかどうかで、掲示板の見え方が変わってきます。

ともあれ、ほかの誰かではなく、自分自身が天子魔との戦いを意識し、祈り、行動することが根本です。そこからすべてが始まり、ここに人間革命の王道があるわけです。内なる天子魔を猛然と破る祈りの中に、悪を滅する功徳が生じる。人生の中でもっとも大事なこと、それは「仏に成る」ということである。