投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 9月13日(日)20時54分56秒     通報
>健全な批判と悪意の批判の分岐点は何か?
祈りがあるかないかではないかと思うのですが、いかがでしょうか?<

創価学会は信心の団体であり、すべての行動の根底には祈りが不可欠です。それでこそ仏法者であり、祈りなき行動は空転を生むからこそ、「信心根本」とすることが大事なわけです。もちろん批判することも例外ではなく、「広宣流布のため」なのか、それとも「自己都合のため」なのか。行動が正しくても、一念が間違っていれば不可というのが、仏法の世界です。いくら取り繕っても、一念の狂いは必ずなんらかの現証として、現実世界に顕現されます。ここに仏法の厳しさがあります。

就中、悪を責めるということは、魔性と対峙するということであり、仏でなければ立ち向かうことはできません。仏とは大慈悲であり、日蓮大聖人が顕仏未来記において、「願わくは、自分を迫害した国主等をまず最初に化導してあげよう」との心こそが仏の心であり、究極的には敵という概念すら存在しないわけです。悪人も含め、すべての人を救うことが広宣流布であり、その大願の中に、悪をも変毒為薬し、価値へと転換していくことができるわけです。

すべては仏と魔との闘争であり紙一重です。健全な批判も悪意の批判も、似ているからこそ仏眼で見なければわからない。仏眼とは信心であり、教義変更や安保法制の問題に関しては、推進している人たちの根底の一念に、危ういものを感じるからこそ、懸念の声をあげているわけです。本部も公明党も、権力の魔性に知らず知らずのうちに毒されてしまったのではないかという心配であり、根底の一念は振る舞いに現れてしまいます。民衆を見下し、軽く考え、話を聴かず、門前払い。この姿勢自体が権力の魔性であり、体質そのものが腐っていることが炙り出されています。

組織の意向に左右され、思考を停止させているような弱い信心では、魔性に飲み込まれてしまいます。根底にあるのは事なかれ主義であり、「仕方がない」という念仏思考でしょう。まだまだ念仏との戦いは終わっておらず、日本人の命に染みわたっています。組織の意向に合わせていれば安全であり、それが正しいか正しくないかは二の次なのです。果たしてそれでいいのか。そういう問題提起をしているのが宿坊の掲示板であり、組織人ではなく、一人の人間、一人の信仰者としてどう思うのかという根本への問いかけをしているわけです。

ともあれ悪意の批判にならないように、細心の注意を払っていく必要があるでしょう。全世界に開かれた掲示板であり、誰でも閲覧自由なので、つまらない誤解を与えないように気を配らなくてはなりません。糾弾することは、善意であったとしても、誰かが傷つき、苦しむ可能性が高いからです。悪と戦うということは無傷ではいられない。その自覚がなければ戦うことはできない。

日蓮仏法は民衆仏法であり、日蓮大聖人自体、旃陀羅の子であることを誇りにされました。権力の魔性と対峙できるのは、しがらみや立場のない民衆であり、そこに真実があります。名もなき民衆が声をあげ、権力に立ち向かう。民衆の味方になるか敵となるか。54年は、民衆を捨て(池田先生は民衆の代表)、権力に屈した歴史です。今、再びそれが繰り返されようとしています。「時代、状況が変わった」という名の元に、三代会長を蔑にし、過去の人にしようとしている流れを感じます。