投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月16日(水)20時25分23秒     通報
■ “死後はない”説も証明不可能

斉藤: 現代の教育を受けた人のなかには、「死後の生命=迷信、非科学的」という図式を盲信している人たちが多いのは事実です。その図式自体が、証明がないという意味では「迷信」なのですが —- 。

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如来寿量品から
「諸の言説する所は、皆実にして虚しからず。所以は何ん。如来は如実に、三界の相を知見す。生死の、若しは退、若しは出有ること無く、亦在世、及び滅度の者無し。実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず。斯の如きの事、如来明かに見て、錯謬有ること無し」(法華経 p499)

如来が説いたことは、すべて真実であり、虚妄ではない。その理由は何であろうか。如来は如実に三界の相を知見しているからである。生や死というが、この三界から退き去ることも、この三界に出現することもない。また世に在る者、滅度した者という区別も無い。この三界のありさまは、真実でもない。そうかといって虚妄でもない。このようであるということもない。またこのようではないということもない。如来は、三界を、三界の衆生が見るようには見ていない。このようなことを如来は明らかに見ていて、誤りかないのである
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名誉会長: だから要は、どちらの仮説が、より合理的で説得力があるか。すなわち多くの臨死体験や「過去世を記憶する人」などの例を検証して、どちらの説が、うまくそれらを説明できるかということになる。
先ほども話が出たが、人間が死んでいく時の体験の核心部分は、文化や宗教、個人的な要因にあまり左右されないようだ。むしろ驚くほど似通っているという。そのこと自体も不思議です。例の一つに体外離脱体験がある。

須田: 意識が体外に離脱して、空中に浮かび、ベッドに横たわっているはずの自分が周囲の人々を見下ろしいたという体験は、非常に多いのです。もちろん、だれもが、こういう体験をするとは限りませんが —- 。

遠藤: 死の瞬間その人の生命境涯によって、大きく違うことが考えられますね。

須田: ですから、あくまで個人的な体験として聞いていただければいいのですが、ある学会員の婦人の体験です。その方は、髄膜炎の再発によって意識不明になり、高熱が出て脈拍は切れ切れになり、ついに瞳孔も開いてしまった。周囲は葬式の相談を始めたそうです。葬儀の写真を何にするかまで打ち合わせを始めた。ところが、その方は後に蘇生して、こんなことを語ったのです。
—- その時、頭の中から、すりばち状のものがすぼっと出ていき、頭の中はからっぼになってしまった。それが病室の天井のすみにくっついて、下の情景を見ている。上で見ている自分と、下に寝ている自分が分離してしまったのです。そして下で右往左往しているみんなの姿が全部、見えた。
「私は死ぬんだなあ」と思った瞬間、御書の一節が浮かびました。「人は臨終の時地獄に堕つる者は黒色となる上其の身重き事千引の石の如し善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども臨終に色変じて白色となる又軽き事鵞毛の如し軟なる事兜羅緜の如し」(御書 p1316)。
〈人は臨終の時に地獄に堕ちる者は色が黒くなるうえ、その身体の重いことは、千引の石(千人がかりで引くほどの大きな岩のこと)のようなものである。善人はたとえ七尺八尺の女人であっても、色の黒い者であっても、臨終には色が変わって白くなる。また軽いことは鵞毛(鷲鳥の羽毛のこと)のようであり、やわらかなことは兜羅緜(綿花の意)のようである〉
それで、死ぬのは怖くなかったが、不成仏が怖くて怖くて「成仏しなくては、成仏しなくては」と思い、声にならなかったが無我夢中で題目をあげようとしたというのです。お母さんの必死の唱題もあって、三日後に意識が回復しました。

斉藤: こういう体験では、ベッドで寝ていたのでは絶対に見えないはずのものが見えていることがあります。意識不明の人に、周囲の親族の服装まで“見え”ており、後に検証するとぴったり当たっているのです。

遠藤: 更に不思議なのは、目の見えない人が、ちゃんと周りが見えていたという証言です。キューブラー・ロス博士は、盲目の人が、病室にいた全員の服装について詳しく説明できたという例を報告しています。

名誉会長: これらは生理学的には説明が極めて困難でしょう。他にも、そういう例は挙げられると思う。しかし、いったん「死後の生命なんて迷信」と信じ込んでしまった人に、事実を直視させることは、なかなか難しい。

遠藤: 学会員でも、信仰する前は、「信仰で生命力が強くなり、病気もよくなる」なんて迷信だと“信じ込んでいた”人は、いっぱいいます。どんなに説明しても、聞く耳をもたなかった人も多いのではないでしょうか。

斉藤: キューブラー・ロス博士も、こう言っています。「私にとってはもはや信じるかどうかの問題ではありません。知るかどうかの問題なのです。みなさんが心から知りたいと望むのなら、この知識をどうすれば得ることができるのか、みなさんに話してあげることもできます。知りたくなければ、それでいっこうに構いません」と。なぜならば「みなさんもどっちにせよ死ねば分かることだからです」(笑い)。〈『死後の真実』伊藤ちぐさ訳、日本教文社〉

名誉会長: 確かに、死んでみればわかることは間違いない(笑い)。しかし、その時はもう手遅れかもしれない(笑い)。いずれにせよ、理論上は、現在のところ、どちらの説も決定的な“決め手”には欠けていると言えるでしょう。
だから私は、いつもパスカルの議論を思い出すのです。

須田: 「人間は考える葦である」と言った数学者ですね。

名誉会長: 思想家だが、数学にも長けていた。「確率」の研究でも有名です。そういう彼らしく、死後の生命について、パスカルは「賭け」の理論で説明する。〈『パンセ』〉
つまり、死後の生命があるかどうか、理性ではどちらとも言えない。 —- これはカントが証明したことでもあるね。
だから、もし人が「死後の生命がある」ほうに賭けて生き、死んだとする。その結果、賭けに負けた —- すなわち、実はそれが存在しなかったとする。それでも「あなたは何も損をしないではないか」とパスカルは言うのです。
一方、「死後の生命はない」ほうに賭けて生き、死んだとする。それでもし、死後の生命が実在していたら、もう取り返しがつかない。生きている間に善行を積んで、死後に備えていればよかったと思っても、もう間に合わない。だから、死後を信じるほうに賭ければ、賭けに勝てば幸福だし、負けても何も失わない。反対のほうに賭けて、賭けに負ければ、取り返しがつかない。こう冷静に考えれば、死後の生命を信じるほうに賭けることは —- つまり宗教を受け入れることは、極めて「合理的な選択」であり、理性的である人ならば、これ以外の選択はないという論理です。異論もあるかもしれないが、私はパスカルの理論には今でも説得力があると思っている。

遠藤: 「賭け」ですか。確かに、「絶対確実でなければ、何もしない」という態度では、結婚もできません(笑い)。
「絶対うまくいく」という保証は、どこにもないわけですから —- 。

名誉会長: 結婚のことはともかく(笑い)、「死」というものは、絶対にだれもが迎えざるを得ない。確実といえば、これほど確実なものはない。しかし、「生死」という人生の「一大事」を真剣に考える人が少ないのも、また事実です。
日蓮大聖人が「夫れ生を受けしより死を免れざる理りは賢き御門より卑しき民に至るまで人ごとに是を知るといへども実に是を大事とし是を歎く者千万人に一人も有がたし」(御書 p474)と嘆かれている通りだ。
〈およそ生を受けた時から、「死を免れない」という道理は、貴い御門から卑しい民に至るまで、人はだれでも知っているけれども、まことにこれを大事として、これを嘆く者は千万人に一人もいないのである〉
特に現代は、仏法でいう「断見」の人が多くなっている。

斉藤: 「断見」とは、生命が死によって無に帰するという生命観ですね。現代の「享楽主義」も、その裏腹の「不安」や「悲観主義」も、この「断見」に根っこがあると言えるかもしれません。

須田: “死ねば終わり”なら、どうしても、“今が楽しければいい”となりがちですからね。もちろん「一回きりの人生だから、真剣に生きよう」という人もいるでしょうが、実際に死を前にして不安を抱かないでいることが、非常に難しいと思います。