投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月17日(木)07時00分10秒     通報
■ 「死苦」をどう乗り越えるか

名誉会長: これは「ターミナル・ケア(末期医療)」の分野でも、極めて大事なテーマです。死を前にすると、その人が「いかなる生死観をもっているか」によって、人生の最後の日々が、劇的に違ってくる。

遠藤: はい。最近、『死は終わりではない』という題名の本が出ました(山下篤子沢、角川書店)。

名誉会長: そのものズバリのタイトルだね。

遠藤: 著者は、アメリカの心理療法家であるスーキー・ラー博士ですが、彼女は、長年にわたり、死に直面した患者さんの心のケアに携わるなかで、「死後の世界」についての探究を深めていったようです。世界各地のさまぎまな文化の死生観を比較文化的に研究し、紹介しています。

名誉会長: 「死を宣告されて苦悩している患者」を前に、自分は何ができるか —- その責任感から死の考察へと入っていったのかもしれない。

遠藤: その通りです。彼女が多くの事例を通して感じたことは、「どんな死生観をもつかによって、臨終における態度がまるっきり違う」ということです。

名誉会長: いざ死に臨んだ時、人は一切の虚飾を剥がされてしまう。地位も名誉も財産も、すべて役に立たない。裸の「自分自身」で死に向き合わなければならない。
仏典では、死後、衣服を奪い、剥ぎ取ってしまう「奪衣婆」の存在が説かれているが、裸の「自分自身」以外の飾りは何の意味もなくなることの象徴とも言えよう。だから生きている間に、信仰によって生命を磨けと教えているのです。

遠藤: ミラー博士の二十年来の友人は四十五歳で亡くなりました。博士は綴っています。
「(彼は)知的な業績を高く評価し、霊魂など子供じみたおとぎ話だと考えていた」。
そして、「合理的な説明」や、「現実の局面で説明がつかないこと」は、すべて「うさん臭いもの」と見る態度が習性となっていました。
「だが、死が避けられないものとなったとき —- 彼を敬愛していた誰もが驚いたことに —- 彼には何の手段も、慰めも、心を癒す思想もないことがはっきりした。自分が直面しているものや行く手にある現実について、考えをめぐらせるどころではなく、ひたすら震えておびえているだけだった。死についても、その意味をとらえようとはせず、したがって安らかさや安心感にはほど遠い状態だった」。「死が避けられないことを知ったとき」、彼の心にあったのは、「まったくの恐怖だけだったのだ」というのです。

名誉会長: それが現実でしょうね。仮に、死で一切が終わりだと信じ、最後までその信念で生き抜くことができる人がいたとしよう。
しかし、自分の身近な家族が死に直面して苦しんでいる時、その人はどんな癒しを与えられるだろうか。彼の信念、死生観が果たして希望となるだろうか。
仏法で説く三世の生命観は、自分に希望をもたらすだけではない。人をも励まし、勇気と希望を与えゆく生命観なのです。

遠藤: 人はやはり何らかの「不死」なるものを求めるものかもしれません。アメリカでは、「遺体の冷凍保存」が行われています。そのための施設がいくつかあるそうです。
あらかじめ施設と契約をしていた人が亡くなると、その人の体を冷凍保存し、将来の科学の進歩を待って、本人を生き返らせようという計画です。

斉藤: にわかには信じがたい話ですが、実際に「冷凍保存から人間を蘇らせる」ことは可能なのでしょうか。あくまで将釆の可能性にかけているわけですね。

遠藤: ええ、現段階では、動物実験でも成功していません。それでも、かなりの契約額にもかかわらず、申し込む人はなくなることはありません。
「脳」だけを切り離して冷凍保存することも行われており、ある大物映画俳優も契約したと言って話題になりました。

名誉会長: 人間の持つ不死への渇仰がどれほど根強いかを思い知らされるね。不老不死の薬を求めたという秦の始皇帝を思い出す。
頭部だけを切り離して冷凍保存するというところなど、いかにも現代的です。「脳」にその人の心も人格もあるという考えが、そこにある。

遠藤: 涌出品のところ(『法華経の智慧 第三巻』)で取り上げた、いわゆる「心」の局所説・局在説ですね。〈心とは脳の中だけの現象であるとする説〉