投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月14日(月)20時19分10秒     通報
■ 十界の姿を“自在に演じる”

名誉会長: 素晴らしい体験です。素晴らしい人生だ。素晴らしい「信心の勝利」です。「御義口伝」に、(法華経・妙音菩薩品第二十四の)妙音菩薩について「卅十四身を現じて十界互具を顕し給い利益説法するなり」(御書 p801)と仰せです。
人々を救うために、その機根や悩みに随って、自在に三十四身を現じ、法華経を広宣流布していく。これを「十界互具を顕し給い」と仰せなのです。
張さんの人生も、あるときは地獄界の苦しみを見せながら、あるときは餓鬼界の悲しみを見せながら、信心によって、それらは全部、願兼於業だったのだと自覚した。地涌の菩薩が広宣流布のために、あえて、どん底の苦しみを自分が引き受けたのだと、確信した。
十界のさまぎまな婆を示しながら、最後は勝利の姿を示して、人々に「妙法の偉大さ」を教えていく。その人は、十界のドラマを演じる“名優”です。その人生はまさに「三十四身を現じて十界互具を顕し給い」の姿に通ずる。

須田: “十界互具を顕す”というのは、本来は仏・菩薩であるのに、十界のさまざまな姿を示していくということですね。

斉藤: 「観心本尊抄」で、法華経寿量品の「或説己身或説他身(或は己身を説き、或は他身を説き)」等の経文について、これが「仏界所具の十界」を表すと、仰せです(御書 p240)。〈経文は「或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す」(法華経 p499)と続く〉
「己身」は仏の身(仏界)、「他身」は十界のさまざまな姿をとるということですね。

名誉会長: 久遠以来、仏は、九界のさまぎまな姿をも示しながら、仏としての活動をしてきたということです。成仏した後も、九界の生命がなくならないから、それができるのです。十界本有(十界をもともと具えていること)です。
また、少し難しいが、方便品の「理具の十界互具」に対して、寿量品は「事行の十界互具」を説いている。仏の一身における事実の行動で、十界互具を示しているのです。それが「或は己身を示し、或は他身を示し」等の意味です。
妙音菩薩が三十四身を自在に顕して人々を救ったように、私どもも、あるいは教師として、ビジネスマンとして、あるいは家庭の主婦として等、さまぎまな姿を示して、広宣流布を進めている。また、あるときは苦悩の地獄界の姿を示し、あるときは喜びの天界の姿を示し、あるときは修羅の姿を示して、前進することもあるでしょう。
創価学会においても、平和団体として活動し、また教育を進め、妙音の名のごとく文化を広げ、言論活動をし、仏法を基調に、ありとあらゆる姿を示しながら前進しています。まさに三十四身であり、十界互具の実践なのです。
■ 生命の「基底部」を変える

須田: 最後に、もう一つ確認しておきたいことがあります。十界互具論の目的は、人界所具の十界、なかんずく仏界を涌現するところにある —- これは納得できるのですが、そこで疑問になるのは、宇宙に百界があるように、人間の生命にも百界が具わっています。それでは、その「人界の生命の百界」には、どういう意味があるのかということです。

斉藤: たしかに御書では、「人界所具の十界」に焦点を当てて論じておられます。その上で、一個の人間が十界互具(百界)の当体であるというのは一体どういう意味になるのか。それとも論じる意味がないのか —- という疑問ですね。

名誉会長: 一つのとらえ方として、生命の「基底部」を考えたらどうだろう。「基底部」というのは、同じ人間でも、地獄界を基調に生きている人もいれば、菩薩界を基調に生きている人もいる。

斉藤: 地獄界を基底部にするというのは、ちょっとしたことでもすぐに落ちこんでしまう —- などという傾向性もそうですね。

名誉会長: いわば、生命の「くせ」です。これまでの業因によってつくりあげてきた、その人なりのくせがある。

斉藤: それは、その人の「パーソナリティ(人格)」とかも含まれますね。

遠藤: その人がいつ一も立ち返る「拠点」というか、「マイホーム」というか(笑い)、生命の根本軌道でしょうか。

名誉会長: バネが、伸ばした後もまた戻るように、自分の基底部に戻っていく。地獄界が基底部といっても、四六時中、地獄界のわけではない。人界になったり、修羅界になったりもする。修羅界の「勝他の念」を基底部にする人でも、ときには菩薩界や天界を出すこともあるでしょう。

須田: それを「修羅界所具の菩薩界」と言っていいわけですね。

名誉会長: しかし、修羅界を基底部にする人は、一時的に菩薩界を現出しても、また、すぐに修羅界に戻ってしまう。この基底部を変えるのが人間革命であり、境涯尊命です。
その人の「奥底の一念」を変えると言ってもよい。生命の基底部がどこにあるかで、人生は決まってしまう。譬えていえば、餓鬼界が基底部の人は、餓鬼界という船に乗っているようなものだ。
餓鬼の軌道を進みながら、その船の上で、あるときは笑い、あるときは苦しむ。さまぎまな変化はあるが、船は厳然と餓鬼界の軌道を進んでいる。ゆえに、見える風景も餓鬼界の色に染まっているし、死後も、宇宙の餓鬼界の方向に合致していってしまうでしょう。
この基底部を仏界にしていくのが成仏ということです。もちろん基底部が仏界になったからといっても、九界があるのだから、悩みや苦しみがなくなるわけではない。しかし人生の根底が「希望」になっていく、「安心」と「歓喜」のリズムになっていくのです。
戸田先生は言われた。
「たとえ病気になっても『なにだいじょうぶだ。御本尊様を拝めばなおるのだ』と、それでいいのです。そして、安心しきって生きていける境界を仏界というのではないのか。それでいて、仏界に九界があるのだから、ときに怒ったり困ったりもする、安心しきっているのだから怒るのはやめたとか、なんとかいうのではなくて、やっぱり心配なことは心配する。しかし、根底が安心しきっている、それが仏なのです」
「生きてること自体が、絶対に楽しいということが仏ではないのだろうか。これが、大聖人様のご境涯を得られることではないだろうか。首斬られるといったって平気だし。ぼくらなんかだったら、あわてる、それは。あんな佐渡へ流されて、弟子にいろいろ教えていらっしゃるし、『開目抄』や『観心本尊抄』をおしたためになったりしておられるのだから。あんな大論文は安心してなければ書けません」

須田: 先ほど、池田先生が紹介してくださったように、戸田先生は苦境の中でも「太平洋のような大境涯の信心」をもっておられた。これも“根底が安心”ということではないでしょうか。

》記事一覧表示