投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月14日(月)13時39分48秒     通報
■ 「一人」の幸福に、広布の「主体」が

名誉会長: だからこそ「一人の人を大切に」と何度も言うのです。「一人の人」が全宇宙と同じ大きさであり、最高に尊貴なのです。これが皆、なかなかわからない。なかんずく、いわゆる陽の当たるところにいる人だけでなく、「陰の人」に徹底して励ましを送ることだ。表の人を激励するだけでは官僚主義です。陰の人に、また陰の人にと、徹底的に光を当てるのが仏法者です。一人の人を励まし、一人の人が幸福になっていく。その中に「広宣流布」の全体が含まれている。この一点を離れて、上から“組織を動かそう”というのは転倒なのです。
ともあれ、「個」即「全体」という実相は、たしかに通常の思考(思議)を超えている。「不可思議」すなわち「妙」と言われるゆえんです。

遠藤: 天台も、十界互具によって、自分が悟った「不可思議境」(摩詞止観)を表そうとしたわけですから、わかろうとするのが無理なのかもしれません。

名誉会長: しかし、その「不可思議境」というのは、我々凡夫の現実を離れたところにあるのではない。いな、凡夫の現実こそが「妙」なのだ、人間は素晴らしいのだと宣言したのだということを忘れてはならない。
この現実を離れて、どこかに“妙なる所”があったり、素晴らしい“妙なる存在”がいるのではない。これを信心に約して言えば、「信心以外にない」と決めることです。「信心で勝とう」「信心で道を開こう」と決心することです。
「不可思議境」と言っても、究極は「御本尊」のことであるし、「信心」の二字に納まる。
「心こそ大切」です。格好だけ御本尊を拝んでいても、惰性であったり、疑ったり、文句の心や逃避の心があれば、本当の功徳は出ない。
大聖人は「叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず」(御書 p1262)と仰せです。〈(祈りの)叶う叶わないは、あなたの御信心によって決まります。まったく日蓮のせいではありません〉
信心以上の素晴らしい世界はないのだ。御本尊以上の宝聚はないのだ。これこそ「不可思議境」であり、「妙」であり、最高に素晴らしい宝をもっているのだ —- こう歓喜に燃えていけば、功徳はどんどん出てくる。
どこか他の世界に、もっと素晴らしいところがあるのではないか。信心以上の何かいい方法があるのではないか。そういう一念は、仏界の涌現の力を弱めてしまうのです。そして、仏界が涌現してこそ、事実の上で仏界即九界、九界即仏界になり、十界互具になるのです。

斉藤: 「信心」がなければ、十界互具といっても言葉だけのことですね。

遠藤: さきほど「観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり」(御書 p240)の御文を拝しましたが、日寛上人の仰せによれば、この「我が己心を観じて」とは、文底の仏法でいえば「御本尊を信ずる」ことです。「観心の本尊」といわれるゆえんです。また「十法界を見る」とは「妙法を唱える」ことです。

名誉会長: そう。妙法を唱える —- 唱える私どもは九界。唱え奉る妙法は仏界。妙法を唱えることで、九界と仏界が一体となり、十界互具になっていく。大いなる「境涯革命」が、そこに起こる。
仏界が涌現しなければ、十界互具といっても、理論的な可能性(理具)に終わってしまう。信行があって初めて事実の上(事行)で十界互具になるのです。その意味で、十界互具の「理論」は、きわめて難しいが、その「現証」は創価学会の世界には無数にある。いな、学会の世界にしかないと断言できる。
■ 境涯革命 —- 母のドラマ

遠藤: 先日、広島の張福順さんの体験をうかがい、大変に感動しました。張さんは、在日韓国人で、被爆された女性です。差別の苦しみ、被爆の苦しみを乗り越えて、今、平和の語り部として活躍されています。
張さんは、日本へ移住してきた両親の間に、大阪で生まれました。一家は韓国で手広く農業を営んでおられたのですが、軍国・日本に侵略され、植民地政策によって土地を奪われてしまったのです。やむなく日本へ来ざるを得ませんでした。「日本に行けば素晴らしい生活が待っている」との宣伝文句が頼りでした。しかし、危険な工事現場を転々とさせられ、行きついた所は、山奥の小さな村。養蚕所の一角をムシロで区切っただけの小屋に入れられ、小作人の下働きとして働かされました。
しかも、割り当てられたのは、沼地のような田んぼでした。満足な収穫などあるはずがありません。僅かな配給と、草や木の実で飢えをしのいだそうです。

須田: ひどいですね。当時、たくさんの韓国・朝鮮の人々が、そうやって日本にだまされた。

遠藤: 広島に移住して一年後の昭和二十年(1945年)八月六日、「新型爆弾によって広島が全滅した」との噂が流れます。
張さんは、お母さんと一緒に親類・同胞の安否を気遣って、被爆直後の広島市内へ行きました。その時、二次被爆をしてしまったのです。十二歳の時でした。やっと会えた叔母とその息子は、ひどい火傷で、手の施しょうがありません。
叔母が「医者や薬が足らんけえ、朝鮮人までは手が回らんげな。このまま死を待つだけじゃー」と言うと、お母さんは「アイゴー(哀号)!」と悲鳴をあげました。
「アイゴー(哀号)! 国を取られ、日本まで連れてこられ、牛馬のようにこき使い、ひと思いに殺さず、何の罪あってこうやって、半焼きにして苦しめるのか! 生きるも死ぬも差別するのか!」。こぶしで地面をたたきながら慟哭する母の姿を、張さんは今も忘れることはできないと言われます。
その後、張さんは十六歳で結婚。“ロベらし”のためでした。そして出産したころから、被爆の影響でしょう、重度の貧血と内臓疾患に侵され、何度も手術を受けました。
医師から、治る見込みはないと宣告され、広島の病院に移された時は、昏睡状態だったそうです。夫も寄りつかなくなり、病院食を幼い子どもと三人で分けあう日々。お金がないので、それも続けることができず、病院を出て、水道もない小屋に住み、トイレは近くの公園に行くという、みじめな生活でした。そんな張さん一家に手を差しのべてくれたのが、近所の学会婦人部の方々でした。
「一緒に、幸せになりましょう!」。親身になって語りかけながら、熱いうどんをもってきてくれたこともありました。それが、人間不信に陥っていた張さんの心に、どんなに深く染み入ったことか —- 。
昭和三十九年(1964年)に三十二歳で入信。真剣に信仰に励むなか、めきめきと健康を取り戻していきました。その姿に、ご主人も入信しました。
張さんには、長い間、頭から離れない疑問があったそうです。それは「なぜ私が、韓国人として差別を受け、そのうえ、被爆しなければならなかったのか」ということでした。それが、仏法の「願兼於業」という法門を聞き、心から納得できたのです。〈「願、業を兼ぬ」と読む。菩薩が自ら願って、悪世に生まれて、人々を救うこと〉
「そうか、私には、私にしか果たせない使命があるんだ。願って、このような境遇に生まれてきたんだ」と。
そして、戸田先生の「原水爆禁止宣言」を読み、池田先生の指導を学ぶうちに、張さんの心には強い決意がみなぎっていったのです。「在日韓国人被爆者である私にしかできない、平和への貢献があるはずだ。使命を果たすために、もっをカをつけよう! 勉強しよう!」
五十二歳で中学の夜間学級に編入。定時制高校では学年で一、二番の成績を修め、五十七歳の時、広島大学の二部に入学されました。

斉藤: その年齢からの勉学は、並大抵のご苦労ではなかったでしょうね。

遠藤: 「在学中にふとんを敷いて寝た記憶はほとんどない」「いつ寝て、いつ起きたかもわからなかった」そうです。こんな努力に努力を重ね、1995年の春、六十二歳で晴れて卒業を勝ち取られたのです。
現在は、母校の定時制高校で非常勤で教壇に立つかたわら、平和の語り部として、各地の講演会やシンポジウムに出席。識字学枚への援助など、ボランティア活動をネパールやフィリピンをはじめアジア各国で展開するなど、縦横無尽に活躍されています。
入会の折、張さんは、紹介者の方から言われました。「想像もできんような幸せの境涯になれますよ」。その時、張さんは思ったそうです。
「私は、想像もできんような幸せより、すぐ想像できる幸せでええんよ。主人がお酒飲まんようになって、仕事をしてくれる。それだけで十分よ」
それが本当に「想像もしなかった幸せの境涯」を築かれたのです。張さんは、力を込めて語っておられます。
「池田先生が広島に建立してくださった『世界平和祈願の碑』の心を我が心として、世界中の人たちの、平和と幸せの実現のため、生命のかぎり、我が使命を果たしていく決意です」