投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月14日(月)06時40分37秒     通報
■ 十法界 —- 三種の読み方

名誉会長: 不思議だね。大聖人は「法界とは広きに非ず狭きに非ず」(御書 p769)と仰せですが、天台は「十法界」を三種に読んでいるでしょう(法華玄義)。

斉藤: はい。三種類というのは、「十の法界」「十法の界」「十即ち法界」と読む読み方です。それぞれ、空諦・仮帝・中諦に対応しています。
第一に、「十の法界」と読みます。これは十界の違いはあっても、どれも「法界」である。仏が悟った実相の世界、つまり全宇宙であるということです。地獄界なら地獄界、人界なら人界のそれぞれが、すべて「法界」として平等である。宇宙生命、妙法の当体として平等であるということです。

遠藤: それが空諦の見方ですね。

斉藤: 地獄界とか人界とかの「違い」はあっても、それらの違いは「実体ではない」と見るから「空諦」です。

名誉会長: つまり、個々の界が、そのまま大宇宙の全体と見る。いわば「諸法即実相」であり、「個即全体」です。一粒の砂に全世界を見る見方だ。その反対に、「実相は必ず諸法」だから、「全体即個」の側面がある。
宇宙生命は、無限の違いをもつ森羅万象となって顕れるという側面です。

須田: それが「仮諦」の見方です。平等に法界であるといっても、現実には十界の違いがあります。そこで「十法の界」と読みます。この「界」は「違い」という意味です。

名誉会長: それでは、どうして、そういう「違い」が出てくるのだろうか。

遠藤: それは、平等の「法界」をどうとらえるのか、衆生によって、とらえ方が違うし、感じ方が違います。その遠いに十種類あるということではないでしょうか。

名誉会長: そうでしょう。その意味で、十法界(十界)というのは、宇宙の客観的な姿というよりも、主体的なとらえ方 —- 境涯の世界を表している。同じ大海に浸っていても、海水をくむ人の器の大小によって、くみとられた水の多い少ないは違ってくる。智慧の海も同じです。
本来、十界のどの衆生も、宇宙生命の全体そのものである。それが仏の悟った宇宙の実相です。しかし、衆生の側では、そうとらえられずに、地獄界に苦しみ、餓鬼界に苦しみ、あるいは修羅界に争い、二乗界に満足している。
しかし、そのように地獄界にいたとしても、それでもなおかつ、その地獄界に全法界が具している。そう見るのが「中諦」です。これが天台の第三の読み方だ。

斉藤: はい。「十即ち法界」と読みます。つまり、地獄界は地獄界のままで法界です。地獄界から他の界に移るのではなく、そのままで一切法を具している。一切法(諸法)とは「十界の依正」のことですから、地獄界に十界を具しているということになります。他の九界も同様です。

遠藤: それが十界互具ということですね。だんだんわかってきた気がしますが、やはり難しいですね(笑い)。

須田: 難しいのは、通常の我々の考え方を超えているからではないでしょうか。ふつうは「部分が集まって全体になる」ととらえるわけですが、仏法が説く生命の世界には、これは通用しない。「部分(個)がそのまま全体である」というのですから。