投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月13日(日)13時17分4秒     通報
■ 宇宙も「百界」 自分も「百界」

名誉会長: こう言えば、わかるだろうか。人間は「小宇宙」です。「小宇宙」即「大宇宙」であり、我即宇宙です。宇宙全体は十界互具の当体だから、百界です。一方、私どもの生命も、宇宙即我であるゆえに、百界が具している。同じく百界(十界互具)の当体なのです。

須田: 確かに、我々(小宇宙)が百界で、宇宙全体(大宇宙)が千界であっては、くい違ってしまいますね。「即」にはなりません。よくわかりました。

遠藤: 宇宙も一個の大生命であり、我々も一個の生命です。「生命」であるということで平等です。「互具」というのは、この生命の不思議な実相そのものを説こうとしているということですね。

名誉会長: その実相とは、十界のどの衆生であっても、そのままで「完璧な小宇宙」なのだということです。それは「諸法実相」のところで学んだことと同じです。
日蓮大聖人は、法華経の「諸法実相」について、こう仰せです。「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなり」(御書 p1358)。
この御文で、「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体」というのが「諸法」にあたる。諸法とは全宇宙の一切の現象のことです。この森羅万象も、すべて十界のうちに納まってしまう。
依正というのは、たとえば正報(主体)が地獄界なら依報(環境)も地獄界です。
宇宙の一切の法(諸法)も、「十界の依正」以外にはない。それらが、ことごとく一法ものこさず、「妙法蓮華経のすがたなり」と。これが「実相」なのだというのです。つまり、一切の法(諸法)の、どの一法をとってみても、それは南無妙法蓮華経という宇宙の大生命の顕れであるということになる。

斉藤: そうしますと、十界互具も諸法実相から帰結されるということですね。諸法実相というのは、個々の生命(諸法)がそのまま宇宙生命(実相)の顕れであるということですから。これを十界にあてはめると、十界の、どの一界 —- “個々の生命”をとっても、そこに宇宙の全体 —- 十界 —- が具わっている。そういう関係になります。

名誉会長: すごい生命観、世界観、宇宙観なのです。大聖人は「草木・樹林・山河・大地にも一微塵の中にも互に各十法界の法を具足す」(御書 p561)とも仰せだ。

須田: 有名なブレイク(英国の詩人)の詩を思い出しますね。
「ひとっぶの砂にも世界を
いちりんの野の花にも天国を見
きみのたなごころに無限を
そしてひとときのうちに永遠をとらえる」(寿岳文章訳)

名誉会長: 一粒の砂、一輪の花も、妙法の当体です。妙法の当体ということは、そこに宇宙生命の全体が込められているということです。

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「御義口伝」から
「無とは法界同時に妙法蓮華経の振舞より外は無きなり有とは地獄は地獄の有の儘十界本有の妙法の全体なり(御書 p754)

(経文にある「無有生死」の)「無」とは、宇宙の森羅万象は同時に妙法蓮華経の振る舞い以外の何ものでもないということである。「有」とは、地獄は地獄のままで、十界をもともと具えている、妙法の完全な当体だということである。
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遠藤: もはや、大きいとか小さいとかの次元では、とらえられません。日寛上人は一念三千について、「微小な一念に、どうして三千という広大な次元を具していると言えるのか」という問いを設け、法華経は「具遍」を明かしているのだと答えられています(「三重秘伝抄」)。
「具」は「そなわる」こと。「遍」は「ゆきわたる」ことです。「法界の全体は一念に具し一念の全体は法界に遍し」と。極大が極小に具わり、極小が極大に広がっていきます。「それは譬えば、一つぶの土に、その周りの広大な国土の成分がすべて具わっており、一滴の水を大海に加えると、それが大海中に広くゆきわたるようなものだ」とも仰せになっています。

須田: こうした不思議については、「空」ということがわからないと、わからないのではないでしょうか。
再び「よく受ける質問」についてなんですが(笑い)、「宇宙に十界がある」といっても、宇宙のどの部分が「修羅界」で、どの部分が「天界」で —- と考えればいいのでしょうかと。地球のあたりが「人界」でしょうか —- という人もいます。