投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月10日(木)19時14分14秒     通報
■ 「ナルシシズム(自己愛)社会」の罠

遠藤: これらの体験を紹介した心理学者(J・シーガル)は、現代はナルシシズム(自己愛)の罠に、はまってしまっていると警告しています。
自分を満足させることだけが人生の目的となり、「他の人のことを思うなどというのは今や時代遅れ」(小此木啓吾訳、前掲書)になっていると。
人々は、“楽しまなくてはいけない、自分が喜びを感じなくてはいけない”と強要され、半ば命令されている。そういう文化になっている。自分を犠牲にして他の人に尽くすなどということは、「不健康で誤った考え」だと思われるに至っているという分析です。

名誉会長: 納得できるね。問題は、その結果、より幸福な社会になったのかということです。そうではないでしょう。

遠藤: はい。ますます、人は孤独になり、励まし合うことを忘れ、生きる力を衰弱させています。

斉藤: だからこそ、ますます「もっと楽しいことはないか」と、欲望を肥大させていく —- 悪循環てすね。

名誉会長: その悪循環の“黒い鉄鎖”を断ち切るのが「菩薩界」です。「ナンバー・ナイン(十界の第九)」の生き方です。
有名な話だが、ある人が地獄に行った。すると 皆がごちそうを前に食べられないで苦しんでいる。どうして食べられないのか。ハシが自分の手よりも長くて、口に食べものを入れられない。
今度は仏国土へ行った。そこでも皆のハシは手よりも長い。なのに皆が満足して食べていた。どうしていたか。互いに、相手の口に入れてあげていた。

斉藤: 地獄と仏国土の違いは、環境の違いではなかった。住む人の「心」の違いだったということですね。

須田: 豊かさの中で、なぜか苦しんでいる現代。その原因が、どこにあるかを示す話と思います。

名誉会長: ともあれ、社会は変わる。刻々と変わっていく。政治も経済も流行も、世の中の全部が変わっていく。そのなかで変わらない不動の一点。それをもっているか否か。それをもっているのが私どもです。それは妙法です。妙法こそ、不動の原点であり、そして、すべてをよりよい方向へ変化、変化させていく根本の力です。
人よ変わる。しかし法は変わらない。人は、だませる。しかし法は、だませない。インチキは通用しない。この不変にして絶対の「法」を中心にしてこそ、人生も社会も永遠の栄えがあるのです。それ以外は、すべて幻のようなものだ。結論していえば、広宣流布に生き抜いてしく地涌の菩薩の人生こそ最高です。これ以上の人生はないのです。それを自覚するか否かが信心の問題てす。
■ 「師子王の心」の信心が仏界

斉藤: 菩薩というのは「上求菩提・下化衆生(上は菩提を求め、下は衆生を化する)」と言われます。私たちで言うと「自行・化他」ということですね。

名誉会長: 自分も幸福になり、人をも幸福にするということです。自転をしながら、公転していくということです。それが宇宙の法則です。
ある意味で、自分の幸福は後回しにしてでも、民衆の幸福のために尽くすしていくのが菩薩です。それが学会精神だ。崇高です。信心は戦いです。人生は戦いです。仏法は戦いであり、菩薩界・仏界というのは、勇んで悪と戦っていく行動にしか出ない。
この宇宙は第六天の魔王の支配する世界です。「不幸の将軍」「不幸の王」が率いている。だから幸福の人間を妬む。あだむ。壊そうとする。これと戦ったのが大聖人であり、釈尊です。どうしても妬む。弾圧する。人を不幸にして喜ぶ。そういう邪悪な軍勢と戦って、打ち破って幸福になる。仏になる。だから大聖人は「獅子王の心を取り出して」(御書 p1190)と仰せなのです。

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御義口伝から

「一念に億劫の辛労を尽くせば本来無作の三身念念に起こるなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(御書p 790)

一念に、億劫にもわたる辛労を尽くすならば、本来、自身のもっている無作三身の仏の生命が、瞬間瞬間に起こってくるのである。いわゆる南無妙法蓮華経は精進行である。
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須田: 「師子王の心」の信心が仏界ということでしょうか。仏界とは「何があっても崩れることがない幸福境涯」と言われますが —- 。

名誉会長: 絶対的な幸福の境涯です。「絶対的」というのは、何があっても明らかに見ていけるからです。智慧です。そして、何があっても動じないからです。心の強さです。その智慧と強さを、いかなる時にも、生命の奥底からくみ出していけるから、絶対的幸福なのです。
決して、何の悩みも苦難もないということではない。そんな人生はありえない。何もかも順調というのは、それ自体、幻であり、嘘です。悩みがあるのが実像です。大聖人は「煩悩即菩提」と仰せです。悩みがあるから幸福が味わえるのです。苦難があるから成仏できるのです。悩みがない人生というのは、本当は、少しも幸福ではない。それが仏法の見方です。
それでは「仏界」とは何か。それは私どもでいえば「信心」以外にないのです。戸田先生は、こう言われた。
「成仏とは、仏になる、仏になろうとすることではない。大聖人様の凡夫即極、諸法実相とのおことばを、すなおに信じたてまつって、この身このままが、永遠の昔より永劫の未来に向かって仏であると覚悟することである」
「信心」であり「覚悟」です。「自覚」です。