投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月11日(金)06時50分32秒     通報
■ 「本来の生命に帰る」のが本門

名誉会長: 寿量品では「久遠の仏」が説かれる。その仏とは、だれのことか。大聖人は「我実に成仏してより己来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」(法華経 p496)の「我」とは「法界の衆生なり十界己己を指して我と云うなり」(御書 p753)と仰せだ。
寿量品の「久遠の仏」とは一切衆生のことなのです。私どものことです。凡夫は凡夫のままで仏なのです。
命に差別はない。平等です。平等に仏です。違うのは、それを自覚しているか否か、その「心」の違いだけです。
三十二相八十種好で身を飾るのが仏なのではない。我が生命そのものが本来、仏です。宇宙そのものが本来、仏なのです。太陽が出るのも慈悲。月が照らすのも慈悲。緑の木々が美しく呼吸しているのも慈悲です。宇宙全体が無始無終にわたって慈悲の活動を続ける大生命体なのです。
その大生命を久遠の仏という。そして、十界の誰の生命も、この寿量品の仏と一体なのです。その本来の生命に帰るカギが信心です。

斉藤: 本来の生命に帰る —- それが本門ですね。

名誉会長: その通りだ。大聖人は「寿量品とは十界の衆生の本命なり、此の品を本門と云う事は本に入る門と云う事なり」(御書 p799)と明快に言われている。

須田: 「久遠の本仏」の大生命こそ、十界の衆生の「本命」である。その本来の命に入っていくのが本門の本門たるゆえんなのですね。

遠藤: 本来、自分のものなのだから、いくらでも本仏の力を頂けるということですね。

名誉会長: 全宇宙が自分の銀行口座のようなものだ(笑い)。「信心」次第で、いくらでも宝が引き出せるのです。
そして「信心」とは「魔と戦う」こと以外にはない。正義とは、悪と戦うことであり、仏法とは難と戦うことです。
ある時、四条金吾が度重なる苦難に、思わず弱音を吐いた。「法華経を信ずる者は現世安穏のはずであったが —- 」と。それを伝え聞いた大聖人は、こう指導されている。
「松は万年のよはひを持つ故に枝を・まげらる —- 法華経の行者は久遠長寿の如来なり、修行の枝をきられ・まげられん事疑いなかるべし」(御書 p1136)
松が風雪に耐えて「万年の寿命」を証明するように、法華経の行者は、難に耐えることによって、「永遠の生命をもつ仏」という本地を現わす。今こそ、尊極の「仏界」を現わす時である。最高の功徳が出る時なのに、何を弱音を吐くことがあろうかと、励ましておられる。

斉藤: 同じ御書では「法華経の行者は難に値うと心得て法華経を受持せよ」「成仏は持つにあり」とも仰せです。

名誉会長: 受持です。「自分には広宣流布の使命があるんだ」と信じ、妙法を受持しきって生き抜くのです。